安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
検索
最新の記事
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
自分のアタマで考えざるを得な..
at 2015-03-06 03:57
折り合い
at 2015-03-01 00:19
C++とC#
at 2015-02-07 02:10
浮世離れ補正
at 2015-01-25 01:21
記事ランキング
タグ
(294)
(146)
(120)
(94)
(76)
(64)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

タグ:雑感 ( 294 ) タグの人気記事

円高の正体

代休っぽい理由で、自宅にいる。で、朝から読書なんかをしている。検診の結果、中性脂肪が高くて動脈硬化リスクが高まっていますよ、なんていう警告が出てしまったので、少しは運動などしないといけないなぁ、とも思っているが、運動のための運動というのは大嫌いなので、自転車に乗ってお寺参りにでも行ってこようか。

--

finalventさんが推していた「円高の正体」という新書が気になっていたのだが、古書価格が結構高止まりしていたので二の足を踏んでいたら、AmazonでKindle版が得られていたので、早速購入してみた。

円高の正体 (光文社新書)

安達 誠司 / 光文社


私個人の場合、内容的にあまり好ましくないが成り行き上目を通さざるをえない本というのは、意識的に古書で書い、読み終わったらすぐに売ってしまうケースが多い。こういう場合、私が払った代金というのはすべて流通業者に流れ、保証金のようなどんぶり勘定のフィードバック経路がある場合を除いて、版元や著者には流れない。ところが、電子書籍では代金が販売店の取り分を除いて発行元に流れる上、古書が流通して市場を食い荒らすことも未然に防止できる。

なぜ既存の出版社が電子書籍に積極的にならないのか理解し難いが、おそらく、過去の経験で身につけたノウハウが役立たなくなることを恐れている中年以上のスタッフが反対しているか、長年一緒に仕事をしてきた印刷や流通業界の幹部からの接待に、幹部クラスがほだされているからとか、そんなあたりなんだろう。


さて、本題。

本書の内容だけれども、日本のデフレの主要因は金融政策にあり、日本の不景気の原因の全ては日銀の不手際にある、という極端な主張をする人たちの理論的根拠がある程度把握できるという点で、参考になった。けれども、新書という形態の制限からある程度当然なのだけれど、議論が大雑把で、正当性を検証できるレベルではなかった。

つまり、「そのとおりですね」とも言えるようなデータではあるのだけれど、また同時に「こういう見方もできますね」と言えてしまう程度の単品データでもあるので、要するに緻密な議論ができない。新書で緻密な議論ができるようなデータを提出されても困るのだけれど、それとは別に、データの前後に主観的な主張が強すぎて、そもそも客観的な議論ができるような文脈ではないという問題もあった。

過去に読んだ「デフレの正体」でも事情は似たようなものだったので、結局は両者の意見を念頭に置いた上で、結局は基礎的な経済理論から、現下の社会モデルに参照して、事前仮定が成立しない理論を丁寧に除去して、成立する理論もその成立範囲をある程度確定して、その上で現実を説明可能な理論を再構築するしか、結局のところ手はないのだと感じた。このあたりがキリリと示されることを若干期待していたのだけれど、それは過ぎた期待だったようだ。

本書で、ライバルとなる「デフレの正体」に対する反論のようなものもあったのだけれど、思ったよりあっさりとしていて、1ページ分の文章と、表が1枚添えられているだけだった。つまり、日本より生産年齢人口が減少している国はあるが、その国でもインフレ率はプラスになっていて、デフレが起こっているのは日本だけですよ、という、あっけないほど簡単な「反論」だった。

デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

藻谷 浩介 / 角川書店(角川グループパブリッシング)


けれども、日本よりも生産年齢人口の減少が大きいとされる国は、主に東欧諸国であり、日本のような経済成長を終えた成熟国家ではなかった。そういう国では、社会資本も個人所有物も、まだ十分に揃っていない段階にあるのだから、人口が多少減少しても、国内需要が本格的な縮小に転じるまでにはまだ余裕が残っているだろう。

そういう意味で参考になるのは、日本に近い生産年齢人口の減少が始まったドイツくらいなのだけれど、ドイツのインフレ率も1.6%と非常に低いレベルになっている。そして、現在のドイツというのは既にユーロ圏内にある。独自通貨のマルクが生きていた時代ならいざしらず、通貨圏内に独仏などの成熟国家だけでなく、ポーランドや旧ユーゴスラビア諸国などの発展途上国を抱えた経済圏にある。ユーロ圏内にあるドイツのインフレ率を見るということは、円圏内にある関東のインフレ率を見るという処理に似ている。

そしてドイツ国内にも旧東ドイツ圏の発展途上エリアを抱えている。この地域ではまだ社会資本に対する需要がいくらか残っているだろう。さらにドイツは1560万人の移民を抱え、その割合は19%にも達している。元からのドイツ人4人に対し、移民1人が同居していることになる。移民たちは基本的に家族で定住し、ドイツ国内に残ることを希望しているらしいが、彼らが国内需要に対してかなり貢献しているだろう。また、移民の中にはドイツ国内で稼いだ賃金の一部を、故郷の家族に仕送りしている人もあるだろう。これは、通貨的には労働力の輸入と同じ効果をもたらす。こうした状況も、現在の日本の状況とはかなり異なる。

参照:【ドイツ】外国人・移民人口が19%に拡大[社会]/NNA.EU
(2010年2月のニュース)

非生産年齢人口には、未成年と老齢者の2種類があり、需要を押し上げる効果の大きい未成年と、その効果が小さく、むしろ保有資産の売却圧を生じる老齢者人口では、その効果が異なる。なので、単純な生産年齢人口の増減だけではなく、多産多死から少産少子への移行による生産年齢人口の現象という、人口オーナス状態の例を探し出して比較する必要がある。しかし、こうした状況に対して無対策で放置されている国家は、現在の日本と10年後の韓国くらいしかないので、データが少なく直接的な反証はできない。それに対してごく簡単なデータで反証しているということそれ自体が、むしろ不誠実に感じられる。

また、本書のテーマのもう一つは、円高は常に悪で、良い円高など存在しない、というものだった。この点が強調されすぎて、論がずれているところも多々あった。産業構造が輸出超過であれば、円安のほうが良いに決まっている。中国の元が安値誘導を続けていて、それが欧米に批判されてるのもそうした理由だろう。ただ、それを解消するのが金融政策にしかできないという理由が知りたかったのだが、そうした説明はなかった。

円安になれば輸出が増大してGDPを押し上げるというグラフが出ていたが、そんなのは当たり前であって、金融緩和の拡大が必要という論拠にはならない。また、掲げられていたグラフは、長期的には正弦波振動に近い波形をしており、円安が黒字の拡大方向に押し上げ、次に黒字拡大が為替を円高方向に押し下げるという循環振動に過ぎない、としても説明可能なグラフだった。つまり、ひとつの振動のサイン波とコサイン波を見ているだけではないかと。

むしろこのグラフの語るところは、円高基調でも円安基調でも、常に貿易黒字超過の状態が続いているという点ではないかと思う。日本の貿易市場には不当に過剰な輸入障壁が存在するために、本来の為替相場がもたらす適正な貿易収支より過剰な黒字超過の状態に陥っており、それが原因で適正な為替水準よりも円高に傾いてしまっているのではないか。日本の高い規制水準も、一部には不当に強い非関税障壁として残っているし、米の輸入は関税障壁しかないが、その税率は常識的な関税率の水準を大きく超える値になっている。

日本は外国人労働者の入国にかなり厳しい制限を課しているが、これは労働力に対する輸入障壁と見ることができる。外国人労働者が母国へ送金する際に税金を課せばそれは関税障壁に相当するが、入国段階で厳しく審査して入国を絞るのは非関税障壁に相当する。これらの輸入障壁が貿易不均衡をもたらし、人為的な貿易黒字体質によって、輸出産業が一方的に不利益を被っているというのが、今の日本の状態なのだろう。

そういう状態に対して、市場が本来要求する水準よりインフレ方向へと、金融政策によって人為的な為替相場の操作をするという対症療法をすることを本書では主張するのだけれど、不均衡な輸入障壁を取り除き市場による自然な相場調整力によって為替水準を均衡させるという、根治療法の方が適切だと思う。TPP加盟は、少なくとも根治療法の推進力として使うには妥当なものだろうと思う。

短期的には投機取引による相場調整力が主要因となるが、長期的には結局相場を上下する要因は実需が支配的になると考えるのが妥当だろう。先物取引にしても、最終的な損益を確定するのは現物の受給なのだし。外貨を円に替える必要のある輸出ばっかり積極的で、円を外貨に替える必要のある輸入を一方的に制限していたら、短期的にはともかく長期的には過剰な円高に傾くのは当たり前だと思うのだけれど、本書ではそんな話が「嘘」や「誤解」だとされている。

それから、本書ではFXの取引に関する意見などがコラムに書かれていたが、これは思い切り蛇足だろう。経済学が対象とするような、短くても月単位、場合によっては10年単位の傾向を扱う理論と、FXが意識するような、長くとも月単位、短ければ分単位の取引が示す傾向は、原理が全く異なる。そういうものに対して本書のようなマクロ指標を説明する本が意見を述べようとすべきではない。通貨取引など、本業のトレーダーはパケット遅延時間が問題となるようなミリ秒単位の取引でも勝負しているのだから、明らかの本書の議論対称を外れる。

と、批判が山のように噴出するのだけれど、逆に本書を「知ってた」と思いながら読める人にとっては、「デフレの正体」が突っ込みどころ多数で読めたものではないと感じるのだろう。とりあえず批判的な目で一読したので、今度は参考になる意見を抽出しようという目で再読してみる必要があるだろう。おそらく、「円高の正体」も「デフレの正体」も、6割の真実と4割の誤謬で構成されているのだろうから、その6割ずつを抽出して合成していく必要があるだろう。


結局のところ、需要過多では価格が上昇し、需要過少では価格が下降するという基本原理で説明がつくのだろうが、あるパラメータが別の経路を通じて需要や供給に対して再帰的なフィードバックを起こすので、そのフィードバック経路や寄与率をどう算出するか、というのがキモになるのだろう。特にデフレ下ではインフレ率の符号が逆転しているので、正数域を暗黙のうちに仮定していた関係式のうちいくつかはすでに破綻している。

また、経済学では市場のプレイヤーが合理的判断をすると仮定しているが、初歩的な物理学が摩擦や空気抵抗を無視するように、初歩的な経済学も同様の仮定を持ち込んでいる。例えば、法令による制約や、会社同士やキーマン個人間のお付き合いなどによる、取引の非合理性による効果は無視されている。現在の経済学の体系というのは基本的にキリスト教圏の生まれなので、キリスト教圏の、特にプロテスタント圏の商取引の特性を忠実に表している。しかし、ちょっと京都的なお付き合い精神が随所に残されている日本経済では、多くの指標がもう少し膠着性優位の特性を示すので、既存の経済学の単純な適用は難しい。

たとえば、経済学の常識では金利を下げると資金調達しやすくなり、銀行の貸出が増え、結果として市場に出回る資金量は増えるとされている。そして逆に、金利を引き上げれば市場から資金が回収できるとされている。しかし、その理論の前提として、資金借り出しの主導権を握っているのが需要サイド、つまりお金を借りる企業側にあるという暗黙の仮定が存在している。しかし日本では実質、借り出しの主導権は企業側ではなく、供給サイドの銀行側にある。ここで、ごく基本的な経済原理でさえも、その有効性が大きく制限されることになる。

企業が、今は低金利だからぜひ資金がほしいといっても、貸し手である銀行にとって金利による利潤が手数料として成立しない条件下では、銀行はなかなか資金を貸し出そうとしない。特にデフレ環境下では、国債を買ったり日銀口座に塩漬けにしておくのが一番高い実質金利を産んでしまう。企業は資産が不足しているからそれを増強するために資金を借りようとしているのに、担保として過剰な資産を要求されたりする。つまり貸し渋りが発生する。

一方高金利下では、市場の旺盛な需要によって潤沢な現金資産がある企業が多い。そのような状態でも、銀行にとっては予想インフレ率が高い状況で高い金利による金利収入が見込まれる。そのため、貸し出しノルマを課された銀行の営業員が、企業に対して本来必要とされない資金を貸し出そうとし、場合によっては貸し出し済み資金の引き上げなどをちらつかせて脅しを掛けながら、レバレッジの利いた冒険的な事業展開を半ば強制的に提案したりもする。つまり押し貸しが発生する。

一斉に行われる押し貸しによって潜在需要を超えるバブル景気が発生するが、それを沈静化しようとして中銀が金利を引き上げても、金利上昇によるインフレ期待から、銀行の貸し出しはむしろ積極的となり、市中の現金は増大する。そして総量規制などの直接的な金融的引き締めを実施すると、今度は銀行主導による貸し剥がしが発生し、各種相場は雪崩をうって暴落、最後には潜在需要を下回るレベルまで資金供給が滞るようになる。個人の感覚としても、銀行系クレジットカード会社などが高金利のリボ払いを執拗に薦めてくる態度などから、そういう傾向は明らかだろう。

このように、資金の供給サイドにある銀行の社会的な権力が、需要サイドにある企業や個人よりも目立って強い場合、良心的な経済学が仮定するような、両者が対等な立場にあるか、あるいは実業の側が若干優位にあるような状況が成立せず、金利政策のような極めて基本的な理論でさえ破綻してしまう。リフレ派の意見は大部分が経済学の理論による演繹から成立しているのだけれど、日本の状況を考えると、成長企業に対する妨害として働く法令や商習慣によって、論拠の多くが破綻しているか、または限定的な寄与に留まっているように見える。

なので、現在の日銀がリフレ派の言うような大規模なマネタリーベース拡大を拒否しているのは、今の日本がデフレに陥っている主要因が、金融要因ではなく法令体系などの政治要因にあると考えており、そうした諸々の政治要因を解決することなく金融政策だけインフレ側に倒すと、きっと後悔することになると考えているからではないかと思う。

日本の中銀のレベルはFRBに比べると見劣りする、などといってリフレ派の人は日銀を口汚く批判するのだけれど、日銀というのは単なる造幣所ではなく、各種の通貨指標を時々刻々と収集しているモニタリングセンターでもあるので、自分たちの金融政策が実体経済に対してどのような影響を与えているのかということについては、外部に公開されるサマリー情報しか見ていない人に比べ、ずっと高い精度で認識しているだろう。また、過去の金融政策の失敗について、多様なレポートを読んでいるはずだ。

なので白川さんとしては、どのような批判を受けてようと、政治サイドが適切な法改正などによって産業の成長方向にある障害を取り除き、供給資金が変なところに流れ込んで終わるような市場構造を是正するまでは、絶対に過剰な金融緩和はしないという覚悟を決めているのだろう。実際に日銀が管理調整しているパラメータは物価だけではなく、もっと多岐にわたるバランスを見ているが、リフレ論者の意識は物価にしか向いていない。


今回、総選挙の投票率が過去最低だったらしい。それはなぜかというと、自民党に投票しようが民主党に投票しようが、党内選挙によって誰が首相になるかによって主な政策が決まり、選挙公約が守られないということを実感したからだろう。どこに投票しようが、投票結果とは関係ないところで政策が決定されるなら、投票するだけ無駄ということになる。そういう意味では、野田さんは日本の間接民主主義を破壊してしまった。私は野田さんの取った政策を強く支持するけれども、プロセス的にはひどかったと思っている。

過去、堀江貴文さんがIR情報を偽装したことで逮捕された。そのあたりまでは妥当だったと思う。実業を撹乱するマネーゲームというのは制限されるべきだと思っている。けれども、彼がその程度の罪で、しかも初犯で実刑を食らって服役中だということは、日本の若い人たちに、日本国は新規事業の発展による経済成長よりも、既存権力の維持に注力しているということを高らかに宣言してしまった。そんな情況下では、誰も革新的な事業を起こそうなどとは思わないだろう。なにしろ1回のミスでムショ行きである。そんな危ないものに手を出すほうがバカである。

今の社会制度設計のままで大規模な金融緩和をしても、(リフレ派にとって)想定外の結果が生じ、また別の意味で日銀批判が沸き起こるのは目に見えている。過去の金融緩和によって、日銀は金融政策の無力感を骨身にしみて感じているだろう。リフレ派は単に規模の問題としているが、それを直接語るデータは存在しない。

獲得された無力感というのか、自分の行為が結果に影響をもたらさない、あるいは悪影響をおよぼすことを学習したとき、人は消極的になる。そういうあたりの学習をクリアして、あなた達は成長できると思わせるような制度的サポートをしないと、日本が再び経済成長することはないと思う。それを、日銀の口座に見せ金が溜まっただけで日本の景気が良くなると考えているなんて、どれだけ楽観的なんだろう、などと思ってしまう。


本来の市場主義というのは競争による社会発展を目指していて、必ずしも自由主義を取らない。つまり、本当に市場を無制限に野放しにしてしまうと、最後は寡占企業によって市場を独占されてしまい、市場が成立しなくなってしまう。そこで、市場に参加する企業の権利を国家がある程度制限し、複数の企業が競争状態になることを強制する。そうした強制の代表的なものが独占禁止法になる。完全な自由主義であれば、独占であろうがなんであろうが常に一番強いものが勝つのだけれど、市場主義は市場に参加する強すぎるプレイヤーの権利を制限し、2番手以降のプレイヤーを常に確保することで、取引の選択権確保による競争の活発化と、競争による社会発展を目指している。

今の日本でリバタリアンを自称する人が増えているというのは、今の日本では本来の市場主義にとって適正な規制のレベルを超えた、過剰規制が実施されている実情の反映なのだろう。本当に優れたパフォーマンスを示すシステムというのは、少数の厳密なルールと、その範囲内での自由がバランスよく成立している。国家経済というのも一種のシステムだから、そこでリバタリアンが増えるということは、雑多なルールが過剰になっているという証拠だろう。

自由主義の果てにある極端な資本主義社会では、社会主義が理想像になる。社会主義の果てにある極端な共産主義社会では、自由主義が理想になる。20世紀の社会主義の敗因は私的な産業資本を壊滅させてしまったことにあるし、21世紀の資本主義の混乱の原因は、社会主義的要素を排除し過ぎて中小企業や消費者個人の体力を奪いすぎたことにある。社会主義国が国際社会から退場してしまい、自由主義の寡占状態になったことで国家システム間の競争が弱まり、結果として寡占状態にある自由主義の品質が劣化した、というのが正直なところだろう。

理想的な市場主義というのは、なかなか理想的な中庸を備えていると思うけれども、なにしろ中庸というのは相対的な目標でしかないので、絶対的な目標点を掲げる主義主張に比べて説得力に乏しい。そろそろフォーディズムあたりの中庸に回帰して欲しいと思うけれど、果たしてうまくいくかどうか。

けれどもなんだか一方で、こういう誘惑もある。使える手はなんでも使って、もう一度狂乱物価を呼び、銀座にドンペリが乱れ飛び、目黒にフェラーリが列をなし、地方には大観音が林立するような社会を再現してしまえ、と。もし本当にそんなことになったら、若い人たち、あるいはこれから生まれてくる人たちは、さぞ迷惑だろうけれども。
[PR]
by antonin | 2012-12-21 14:13 | Trackback | Comments(2)

デフレの終わりの始まり

最近なんとなく、長かったデフレの時代の終わりが近づいている感じがする。

まず、円がドルやユーロに対してジリジリと値を下げている。この要因は日銀への追加緩和圧力だとか自民党政権への期待だとかで説明されているが、そのあたりの心理的要素がいまさら効いてくるとは、どうも思えない。もっと単純に、日本の構造的な貿易黒字体質が消えつつあるのが原因としてもいいように思う。

東日本大震災の影響で福島第一原発が盛大に爆発し、そして民意も盛大に爆発し、すでに燃料棒に仕込んである燃料を電気エネルギーに変換することを暗に禁じられている。しかも、この傾向は原子力エネルギーの縮小方向へと向かっている。とすると、メタンハイドレートなどの国内燃料の開発が十分に進むまでの期間、天然ガスなどの輸入を大幅に拡大していくことが必至になる。そうすると電力価格も上昇し、いくらエコとはいえ、発電所にエネルギー転換を依存する電気自動車の普及にもブレーキが掛かるだろう。そうすると、当面は原油の国内需要も高止まりを続けることになる。

今後、日本はもっぱらエネルギー資源の輸入によって貿易赤字体質が慢性的に続いていく。ある程度円安に振れると、そこで輸出額も増大するだろうけれども、なにしろ産業の血液である電力価格がかなり高騰するはずなので、工業的な産品のコストは、円安の効果を打ち消す方向に働いてしまうだろう。ソフト製品であれば、そういう問題は軽減されるにしても。

日本のデフレの最大の要因はプラザ合意によってドル追従型の為替が禁止された影響だと思うけれど、ここまで長引いてしまった要因というのは、どうしても隣国に抱えた「世界の工場」からの、安い労働力を背景にした馬鹿みたいに安い工業製品がもたらした価格破壊だろう。そして今、その中国の労働力も相当に高コストになっており、ある程度自由のきく企業は、より賃金水準の低いタイ、ベトナム、ミャンマーなどの東南アジア各国へとシフトを続けている。しかし、こちらも工場の流入と貿易黒字が累積してくると、近い将来にコストメリットが飽和してくるだろう。

その先にはインドが世界の工場を担う時代が来るとは思うけれども、上海あたりから日本海を渡るだけで日本市場を直撃していた頃に比べると、インドというのはやや距離がある。マラッカ海峡よりあちらに工場が移れば、日本もいくらかその影響から解放されてくるだろう。先進国でこれほどデフレを続けているのは日本だけだ、なんていう指摘もあるが、中国との地理的な貿易距離がこれほど近い先進国は世界でも日本だけだ。まあ韓国もあるけれど、あちらの国内市場というのはちょっとアレなので、分けて考えてもいいと思う。韓国も近いうちに人口ボーナス期間が終わるので、その時にどうなるのかというのは少し心配があるが。

そういうあたりを考えると、アジア由来の産品の価格破壊力が、かつての猛威に比べて徐々にマイルドになってくるのだろう。牛丼の安値競争も一息ついたし、マクドナルドもセットメニューへの回帰を急速に進めていて、ユニクロの商品も今ひとつお値打ち感がない。デフレの牽引役であったような大量消費財が少しずつ値を上げ始めているのを、私のような貧乏人は肌で実感している。

今年は1.58ショック世代がそろそろ大学を卒業するというタイミングだったが、本格化した少子化のために学生バイトが集まりにくくなっていたりして、学生バイトの時給水準はジリジリと上昇を始めている。高齢アルバイトの供給力が急激に拡大しているので、こういう圧力が全体的な給与水準にまでフィードバックしてくるのにはまだ時間がかかるだろうが、消費者物価の裾野では、少しずつインフレ圧力が高まってきているのを感じる。このあたり、鮮度のいいデータがあるといいのだけれど。

でもまあ、いざデフレが終わったら、俺達が金融緩和を指示したからなんだと、立法府のお歴々が自慢げに語り出すのだろう。で、次には国債の金利爆発をどう処理するかという段階に入り、また侃々諤々の議論が再開するのだろう。

まあ、なんとかなるだろう。
[PR]
by antonin | 2012-12-18 21:11 | Trackback | Comments(0)

ヨタヨタ話

昨日は投票に行ってきた。猪瀬さんに投じた都知事票以外は、だいたい死票になった。ただ、「違憲状態」というものがあるときに、議会に送り込む代議士の人数だけを勘定すると地域格差がひどいのだけれど、死票に集まった票数の絶対値などは、目立たないものの確定した統計値として記録に残る。そういう獲得票数の数値を直接比較したとき、選出議員の人数とは別に、投票した一人ひとりの数字が生で表れる。それは厳密に一人一票で数えられ、地域格差は存在しない。

当選を生んだ投票というのは、その代議士の生きた人格という、時間とともに変化する流れに飲み込まれてしまうのだけれど、逆に死に票は投票時点での票数としてしか表現しようがなくなる。下手に勝ち馬に乗るよりも、どうせスレッショルド以下に埋もれる市井の民意表現としては、死票表現というのは案外に割がいいんじゃないかという気もしている。

開票時間中は、久しぶりにテレビを眺めていた。NHKなんかは極力常識的な態度を守ろうとしていたけれども、テレビ朝日は本当に悔しそうに開票状況を伝えていた。今年の隠れ流行語に「ステマ」というのがあったけれども、局として「推し」があるとすれば、形式的には公正中立に見える態度の中に、巧妙に偏向を混ぜるというステルス性が求められるんじゃないかと思う。なのに、朝日系列さんは、もはや聖教新聞や赤旗に匹敵する勢いで旗幟鮮明に民主党を推していた。ある意味、今回の選挙で民主党を殺した要因の3割くらいはこのメディアにあるのではないかという気もする。

紳士が紳士然としているのは、自分の表面的な欲望を押さえつけられるほどに強い、より根深い欲望があるからであって、そういう真の強欲さがないと、表面的な欲望を押さえつけられるだけの動機というのはなかなか得られない。表面的なステルス性を失っているメディアの人たちは、その基礎生活が案外に恵まれていて、夢にうなされたり喉から手が出たりするような動物的な渇望が、もはやないんだろうなという感じがある。

逆に、最後に石原さんを孕んでしまった維新を絶対に国政の中心にはおかないぞ、というような恐怖心は各メディアに共有されている感じがあって、最後の最後で第三極への風をきっぱりと断ち切った見事なステルス性の奥にある渇望というか恐怖心というか、その根深さが伝わってくるような気がした。

今後を考えると、憲法をどうするんだ、という話になるんだろうか。いきなり9条や前文に手を付けるのは軽く内戦状態を誘発するので、まずは第百条以降を削除するなんていうところから手を付けてみたらいいんじゃないだろうか。ここを削除しても法令体系の論理的整合性に対してなんの害もないし、議員にとっても国民にとっても、日本人にも憲法を書き換えられるんだという実感が持てて、先の話が面白くなると思う。官僚機構は先例主義だから、まず正規の手続きを踏んで国民投票を経て憲法を改正したという実績を残しておくのは良いことだと思う。

そういえば、この国は愛と平和を旨とする憲法を戴く国になって久しい。だから我が国では、正しくは愛と平和を何より尊重する人たちが立場的に保守派であり、必要とあらば勇ましく戦える誇り高き「普通の国」を目指す人のほうがむしろ改革派ということになる。後者は明治政府を範とする復古主義的な性質も強いので、必ずしも「革新」とは呼べないが、現状を打破して改めたいと願っているという点では、現行憲法下における「真正保守」という人々は、最も先鋭な改革派だといえる。

そういう目で見ると、「9条を守る会」だとか、その他の護憲派という人たちは、日本国憲法という「不磨の大典」を是が非でも守ろうとする態度を取っているように見える。第百条以降のフランクな条文を読むと、まさか70年近くもメンテナンス無しで放置を食らうとは、公布当時には想定されていなかった憲法であるということが明らかなのだけれど、「進歩的」な護憲派の人たちがかなり屈折した形ながら、大日本帝国憲法の時代にあった「不磨の大典」という文化を継承しているというのが、なんだか奇妙で面白い。

日本語の「保守」という単語も面白い。これを英単語に戻すと、文脈によって "conservative" になったり、あるいは "maintenance" になったりする。護憲派の人は、本当に平和憲法を守り続けたいのなら、頑なに conservative に拘泥するよりは、ときどき適切に maintenance を入れてみたほうがいいんじゃないだろうか。本当に日本が民主主義の国であると信じるならば、国民が望めば適宜憲法を改正していく権利があるはずなんだけれど。

ただまあ、憲法改正というのはOSのバージョンアップみたいなところがあって、その効果が正しく法令のレイヤーに反映されてくるまでは効力を持たないんだけど、そういうことを考えると、大日本帝国憲法下で制定された法令をベースにツギハギしてきた現在の法令体系を一度棚卸して、分量を一度現在の10分の1以下まで削減しないと、とてもじゃないが改正憲法との整合性なんて検証できないと思う。

世界最初の総合大学とされるパリ大学の、中心的学部は神学部だったらしい。中世ヨーロッパを単なる暗黒時代だと信じていた年頃には、フィクションである神について学問を編み出すなんて不毛だな、なんて考えていた。けれども、ある水準を超えると論理的に主張の善悪や当否を判定できなくなることがあるのを知ってからは、神学という学問に対する見方が変わった。

中世ヨーロッパというのは、王国や共和国より上位にカトリック教会を置き、あらゆる価値判断の根底にキリスト教の信仰を置くと決めた社会だった。それはもう決め事という以上の根拠はないのだけれど、とにかくそういう価値判断の根底にある「神の意志」と、現実的な状況判断の際に求められる判断基準との間に、論理的な整合性を取ってやらないといけないような社会だった。そういうカトリック世界における神学というのは、近代国家における憲法学や法学に相当する学問だったのだな、ということが、ようやく見えるようになってきた。

現状、日本の法令はおびただしい項目に膨れ上がり、道交法や労基法などのように、もはや取り締まることすらできないで放置されているような法令もいたるところに転がっている。杓子定規に規定通りに運用される法もあれば、超拡大解釈で恣意的に運用される法もある。最近の日本は、あまり法治国家とは言えなくなってきているようにも思える。

憲法改正もいいけれども、そういう法令体系の論理矛盾を整理するような虫干しを先に実施するのが筋だろうとも思う。イデオロギーじゃなくて、単に論理整合性だけを基準に論じるような。けれども、そういう作業ができるほどの憲法学者や法学者って、この国にいるんだろうか。そういう、利権を切り崩す危険な作業に着手する学者を保護できる政治家って、この国にいるんだろうか。

やっぱり、次善の策を求めて積み重ねていくことしか、実際にはできないのだろうなぁ。
[PR]
by antonin | 2012-12-18 03:50 | Trackback | Comments(0)

ヨタ話

いろいろと仕掛りが溜まっている。風邪を引いたりしてマンキューの再読もペースが上がらないけれども、少し軽口を叩いてみようかと。

選挙の話。個人的にはまだどういう投票行動をするか決めかねているのだが、それはさておき、野田首相がなんだか面白いな、と思った。解散宣言が飛び出たあの党首討論を見て、「野田ちゃん馬鹿正直だな」なんていう感想を速攻アップした人もあったし、個人的にもあの討論にはグッと来るものがあった。が、なんにしろ野田さんである。そこまで直球だとは思えない。

首相になった当初はどんな人物なんだかよくわかっていなかったが、その後、過去の言動なんかが細かく調べられていくと、やっぱりこの人、相当にタヌキだな、というのが今のところの結論になっている。そういう目で見ると、馬鹿正直なのは野田さんではなくて、野田さんの演説に挟まれたエピソードを直球で受け止め、正直すぎるとか良い人すぎるとか言ってしまう人のほうなんじゃないかと思える。

例えば、自民党から民主党に政権が移ることになった総選挙での演説なんかを拾うと、当時の民主党の「いわゆるマニフェスト」に即した内容を力説している。で、いざ首相になってみると、完全に手のひらを返したような政策を打っている。公約違反という意味でも国民への裏切り行為だし、増税という誰も喜ばない政策に血道を上げているという意味でも国民を裏切っている。

確かに、短期的に、といっても国家の計なので5年10年というスパンになるのだけれど、そういう範囲では経済にも国民生活にも、何もいいことはないと思う。けれども、ここで現在の国民にいい顔をしても、30年50年というスパンになってくると、人口オーナス解消後の経済復活の芽を摘む愚策になりかねない。

今は増税の時ではないというけれど、じゃあいつなら増税できるのか、という問題がある。例えば公債残高が国民貯蓄の総計を大きく超え始める段階で一気に消費税率20%超えの大ジャンプができるのかというと、もちろんそんなことはできない。熱い湯に体を慣らすように、ゆっくりと税率を上げていく必要がある。法人税減税と物品税廃止あたりに始まった直間比率是正の終着点が消費税25%あたりとして、現行円債破綻のデッドラインも20年先くらいだとすると、今増税のアクセルを踏んでおかないと、いざ国債崩壊という時に借金をチャラにした先の健全な国家経営ができなくなる。

というわけで、今のうちに増税をやっておかないと次の世代に禍根を残すわけだけれども、そういう大志のために、野田さんは今の大衆をかなり巧妙な手段で騙しに来ているように見える。TPPのほうはまだよくわかっていないけれども、今のところ「ガイアツ」を使った、国内の過剰規制を切り崩す口実を見つけようとしているようにも見えて、そうすると「短期的不利益と長期的利益」という統一的な理念で説明がつくようになる。

おそらく野田さんとしては、「民主党をぶっ壊す」という戦術で進んできたのだと思う。政治家個人としての評価も著しく下がる政策を打っている以上、与党の評価も著しく下がるわけで、野党よりも与党内の軋轢のほうが政治生命に関わる部分が大きかったと思うのだけれども、そのあたりも論功行賞人事だの、なんだかんだで乗り越えてきた。小泉さんが基本的に郵政以外の政策について丸投げだったのと似て、野田さんも増税以外の政策は基本的に力を抜いていた。このあたりは権力の向けどころという本丸が定まっているからこそのコントラストなんだろう。

で、選挙が終わればもう与党民主党も野田総理もありえないということを前提と見て、それでいて最後まで民主党の党首として自民党や第三極相手に議論をしている。このあたり、すでに決まった勝負を白けさせないための演技のようなところがあって、そういう目で見るとなかなかの役者に見える。

まだ疑問の余地は多いのだけれども、今理解できている情報をかき集めると、20年前後未来に国債が破綻するが、それは国民貯蓄の塩漬けになっていた部分の切り捨てだけであって、このあたりはモラトリアムとか無利子特法などで切り抜け、ウヤムヤにしつつ棒引きにすることになるらしい。かといってハイパーインフレなどにはならず、20年先現在の日本国民の付加価値生産率に応じた為替を維持するから、「暴動を起こさない国民性」を最大限に生かした、現金資産保有層に損害をなすりつけて無事手打ち、という結末が有力らしい。もちろん、世情に長けた層は現物資産や海外資産などでしっかり担保を取っているだろう。

このとき、政府が相変わらず単年度赤字ダダ漏れだと赤字国債発行による資金調達の道も塞がれていて経済混乱に陥るが、国債償還の負担さえ取り除けばいきなり健康体に戻るような税制になっていると、国債に吸い取られていた流動資金が市場に流れ込んで、戦後のような大復興がやってくる。だいたいこういう流れになるらしい。

与謝野さんが麻生政権で運悪くサブプライムショックに遭って、自らの手で日本国債にとどめを刺してしまった事を心底悔やんでいたのだろう。恥も外聞も捨てたような形で政権中枢に返り咲き、声を失いながらも増税の筋道をつけて、自分のしたことに落とし前をつけるという壮絶なことをやってのけた。ただ、ここに来て、小泉・竹中改革で一度鎮火した国債膨張に再点火してしまった人が次期首相最有力候補でもあるので、なんだか巡り合わせってのは恐ろしいものだなと思う。
[PR]
by antonin | 2012-11-26 21:46 | Trackback | Comments(0)

マジョリティ・リポート

はるかぜちゃん云々、JAL機に乗り合わせた赤ちゃん云々。子供や赤ちゃんに対して、優しさで接する人が多数でいくらか安心するのだけれども、そういうものにどうにも我慢ならない人や、怒りではなく冷静な意見として子供や赤ちゃんは公共の場に出てくるべきでないと唱える人もいて、モヤモヤとしたものが残る。

この傾向、この先どんどんと加速していくに違いない。

赤ちゃんが泣くのは当然で、泣き止ませることができないのも当然。これは誰もが理解している。これに対して、周囲の人が赤ちゃんの親の事情を慮って場の快適さを犠牲にするのか、赤ちゃんの親が公共の場の快適さを慮って個人的事情を犠牲にするのか、そういうところで意見が分かれているように見える。この部分は、明確な答えはないだろう。ただ、一度育児の大変さを経験した大人というのは、多くが赤ちゃんを抱える親に同情する方へと流れる。

赤ちゃんは痛かったり寒かったり喉が渇いたり、あるいは慣れない環境で眠れずにいるだけのことで泣いたりする。これは生物として未熟なためで、仕方がない。いずれ成長すれば解決する問題である。子供を持つ親の事情が理解できない人というのもこれに似て、子供の面倒を見た経験のない人には想像の付かない苦労でもあるから、経験の未熟によって状況が理解できない段階があるというのも避けれられない問題であり、言葉で説明して理解できる性質のものでもない。これは親の側も辛抱が必要となる。

ただ日本ではすでに、ほとんどの人がいずれ親になるという社会ではなくなった。社会が誰の子とも区別せずに地域共同体で子育てし、自分が子供を作らなくても子育ての経験なら共有できる社会でもなくなった。核家族化社会の中で、子持ちの大人は少数派に転落している。本当の子育ての苦労を知らない人が既に多数派であり、子育てを経験しないまま社会的に重要なポストを占める人がこれからますます増えていく。少数派である子持ちの親は多数派に配慮し、郷に入りて郷に従う必然性が高まっている。

私は赤血球型がABなのでよく感じるけれども、酒や食事を取りながらの軽口のたぐいである血液型性格判断でさえ、A型4割、O型3割、B型2割、AB型1割という序列の中で、A型は几帳面で真面目、O型はおおらかで寛容、B型は自己主張が強くマイペース、AB型は二重人格で変人と、少数になるほど扱いが悪くなる。このあたりは笑って済ませる範囲だけれども、逆に言うと、こんなところにまで少数派の置かれる立場というものが如実に現れてしまう。過去の社会で子供を持たない人の置かれた立場を想像すると恐ろしくなる。

子供は泣くし騒ぐし、何かというと走るし余計なことをして物は壊すし、挙句に自分でしたことの始末も十分にできない。その上働きもしないのに教育だなんだで税金をたくさん使う。大人に対する物差しをそのまま当てて考えれば、非常に迷惑な連中である。自分の子でも親戚の子でもいいけれど、身近な子供の面倒を見た経験がないと、子供という、この凶暴な生物の存在を、なかなか感情的に受け入れることは難しいだろう。

だから、もう既に起こってしまった未来として、子持ちの親はこれからますます肩身が狭くなっていく。正直、この傾向に抗うことはできないだろうと観念もしている。東京というのは全国平均よりもさらに少子化傾向の進んだ社会なので、子供を3人も育てるとそういう空気というものを痛いほど感じてきた。たまたま居合わせた人に助けてもらったりして感謝する場面も少なくないのだけれど、それは海外旅行先で同郷人に助けられたような安堵であって、どちらかというと例外事象に近づきつつある。


人の晩年と死を看取る経験がもっと豊富にあれば、宗教の本来の意味を知るのがもう少し早かったのかな、などとも思うけれども、僧職の世襲などというむごいことをして既に400年以上にもなるので、いろいろと仕方がないよなぁ、などとも思う。あの世というのは /dev/null に似て、馬鹿正直に無いものを無いよと言うと具合の悪い場面のために、仮にあるものと信じておきましょうというライフハックだったのだろうと思う。

自分の怒りを鎮めて他人の事情を思いやるには、脳の過程をある程度ソフトウェア的に制御してやる必要があって、その技術を脳の外部に書き出すと神になったり仏になったりするのだろうと、今では思っている。信じやすい性質の人を騙して操る技術ではなくて、自分の中の爬虫類的な脳の構造を新皮質側からコントロールする技術体系としての説教というのが、日常から失せて久しい。

「覚悟する」というのと「諦める」というのはどちらも、本来は同じものを指している言葉なのだけれど、今ではまるで正反対のような意味に使われていて、説教というのはなんだか難しいものだなと思う。つまりは「そういうものであると知る」という事なのだけれども、少数派として育児をしていくしかないと知ることは、覚悟なのか、諦めなのか、どちらなのだろう。
[PR]
by antonin | 2012-11-20 21:46 | Trackback | Comments(0)

必要悪としての正義

暴走トロッコの議論なんかがあって、正義が論じられる。個人的に、正義というのは主観的なものであって、客観的に答えが出る性質のものではないと思っている。だからこそ主観的に決着するための議論が必要になってくるのだけれども。実は、数学的論理でさえ、ある種の主観の延長なんだと思っているが、それはまた別の話なので省略。

歳を取ると、言い訳が多くなる。多くなるだけではなくて、言い訳が上手になって、あからさまな破綻を見せることが少なくなる。子供の言い訳というのは見え透いていて、教育の義務を負った大人たちにその言い訳を指弾されるのだけれど、大人の言い訳というのは大人を超える超越的な知性によって見透かされる機会というのは少なくて、どちらかというとお互い様という空気の中で消極的に承認されていく。

自分の弱さに言い訳をするのは感じの悪い態度ではあるのだけれども、言い訳もできずに自責の念に苛まれて暴れてくれるよりは、適度な言い訳で自分をごまかしてくれる方がずっと扱いやすいという事情があって、まあ、どちらかというと必要なものなのだろう。こういうものを必要悪と呼べるとすると、国民が遍く守るべき正義というのは、国家が強権を以って人の生活や財産や生命を支配するための、うまい言い訳であり、それもまた必要悪だと呼べることになる。

国家に正義がなければ、国家権力を執行する人間は自責の念に苛まれ職務を遂行する意欲を失い、組織は自律を失う。国家が自律を失えば、結局別の国家によって支配されたり、あるいは小さな権力が乱立したりして、社会は乱れる。ミクロな視点で言えば正義というのは個人を支配するための言い訳なのだけれども、マクロ的に言えば、社会の秩序を守り国民の生活の基盤を守る原動力になる。

正義に論理的解を見出す根拠というのはおそらくなくて、必要なのは説得力だけということになる。感情を揺り動かす力が最大にして唯一の力ということになる。もちろん、マクロな秩序を守るという大目的に反してもいけないが、それは説得力の前にはもはや二次的なものでしかない。ただ結果として、ある正義がマクロな秩序を明らかに乱したとすれば、それが説得力に欠ける主張として人々に記憶される。

合衆国のケネディ大統領が暗殺されたのと、古王国のクフ王の歴史的痕跡が抹消されたのには、いくらかの共通点があるような気がしている。彼らは説得力のある正義を唱えて、それは国民の共感によって人類史に残る偉業を達成したのだけれど、その成功によって正義の暴走を招き、結局は正義に共感した国民に後悔の念を引き起こしたというのが、だいたいの事情なのではないかと思っている。

どのような正義にも三分の理があって、どのような正義も純度を高めすぎれば毒になる。純度の高まりすぎた正義を薄めるための補色のようなものが、その時代に求められる正義ということになる。選挙が近いというけれども、なんとなく気分が乗らないのは困ったことだと思う。短期的に、何か鋭い正義を処方する必要があるのかもしれない。
[PR]
by antonin | 2012-11-20 00:51 | Trackback | Comments(0)

美しすぎる国、日本

家族で長野旅行だったり、単身部屋の転居だったり、いろいろと疲れた。が、心地よい疲れの部類だったので良かった。単身部屋はまだちょっと荒れ気味。もう少し整頓しないとな。

--

「美人すぎる××」というのを一時期よく目にした。で、いつも、この手の言葉が含み持つ悪意に苦笑してしまう。この「美人すぎる××」という表現を、もう少し噛み砕いて書くと、「××にしては美人すぎる人がいるぞ」となる。つまり、絶対評価として取り立てて美人というわけではないのだけれど、「××」と「美人」というのは感覚的に合わないのに、でもその人はそこそこ美人であって違和感がある。そういうときに使われるニュースタイトルが、「美人すぎる××」となる。

「代議士」なんかは功成り名を遂げた老人が立候補したり、セックスアピールで幸せを得られなかった女性が人間としての尊厳を取り返すために立候補したりするものであって、若くて美しい女性の出る幕ではない。そういう先入観があって、そこに売れないタレント程度の外見を持った人が現れると、それはもう「美しすぎる代議士」となってしまう。「海女」なんて伝統的で高齢化が進んだ職業などもそういう先入観に支配された領域だし、美しさよりパワーと技術が優先されるスポーツの世界も同様である。

「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」という格言があって、「美しすぎる××」というのも、そういう意外性がニュースバリューになっている。これはまぁ、大衆の本質みたいなところなので仕方がない。そういうニュースネタに対して、「美人すぎるってほど美人じゃないだろ」みたいなツッコミは、ネタにマジレスというか、無粋なのだろうと思う。

同じように考えて、欧米からの旅行者が日本を指して「清潔で快適」と評価しているのを聞いて日本人が喜んでいるのを見ると、ちょっと違うんじゃないかと思う。つまり、欧米からの旅行者は、よっぽどの日本愛好者でもない限り、アジアの中の一国として日本を訪れる。日本人旅行者がヨーロッパの中でたまたまロンドンを訪れるのと同じような感覚で、アジアの中でたまたま東京を訪れる。

そういう旅行者が東京を見て「清潔で快適」と言うのは、「(アジアの都市にしては)清潔で快適」という但し書きが暗黙のうちに入っていると思ったほうがいいのではないか。私は合衆国を訪れたことはないが、イタリアの観光地は見たことがあって、そこには電線なども張られていないし、都市のすぐ外には美しい自然が広がっているし、日本の都市よりはるかに美しい。そういうヨーロッパの都市を知っている旅行者が東京を「清潔」と評したのだと喜ぶよりは、所詮東京も「アジアの一都市」に過ぎず、ニューデリーや北京と同等の扱いを受けているのだと、冷静に考えたほうがいいのだろう。

まぁ健全な自信というのは大切なもので、自虐的だったり卑屈であるよりは美しい心の持ちようではあるのだけれども、思い上がりよりは謙虚を美徳とするのが日本人の矜持だとすれば、一見ポジティブな評価に対して、あんまり舞い上がらない方が良いのではないかとも思う。

沖縄などで基地から出てきた軍人が犯罪を起こすと、米軍から日本の警察に身柄が引き渡されないと言って騒いだりするのだけれど、国際的に見ると日本の警察の取り調べというのは「拷問」の範疇に入る前近代的なものとみなされていたりして、そういう野蛮な国の警察に自国民である兵士をみすみす渡したりしないというのは、理性的な近代国家として当然の国民保護責任の遂行に過ぎない。米兵の散発的な犯罪行為が良いとは言わないが、なぜ米軍が日本の警察に捜査権を委ねられないのかという事情なんかも省みる必要がある。

「美しい国」を目指すのは美しい心掛けなのだけれど、「美しすぎる国」と呼ばれてしまったら、ちょっと怒ってみるくらいの傲慢さがあってもいいのだろうと思う。「脱亜入欧」を是とも思わないのだけれども、「(アジアにしては)優れた国家」という褒め言葉の中の、カッコ書きの部分に関する感受性みたいなものは持ち続けている必用があるのだろうと思う。
[PR]
by antonin | 2012-08-19 20:12 | Trackback | Comments(0)

ゴメンナサイ・プロトコル

前々回の続き。
短いのでリンクではなくて最初からはじめる。

--

日本人はちょっとしたことですぐに「ごめんなさい」という。これを英語に訳すと "I am sorry" になるとされている。けど、本当にそうなんだろうか。「ごめんなさい」を漢字で書くと「御免なさい」となって、現代風に訳すと、「お許しなさい」となる。丁寧な言い方ではあるけれども、要するに「許せ」と言っている。謝罪を飛ばして、いきなり「許せ」である。考えようによっては非常に厚かましい態度である。これは少し面白いと思った。

日本人が海外進出するとき、それが単独行で、「郷に入りては郷に従え」で異文化に溶け込む覚悟ができていればいいのだけれど、ある程度の集団で乗り込んで行き、しかも定住するつもりもないとなると、彼我の常識の差に驚いてみたりする。日本人の感覚では「ごめんなさい」と言っておけば済む程度のことでも、英語圏で "I'm sorry" と言うと、"What are you sorry for ?" みたいな話になって噛み合わない。中国圏に行って、簡単に自分の非を認めると、非を認めた以上はそれ相応の責任をとれという話になって、日本人は「謝ったのになんでそれ以上を求めるの?」と思うし、中国人は「許されると思うならなぜ弁明しないの?」と思ってしまい、これもまた噛み合わない。

そこには日本特有の紛争解決(というと大袈裟かもしれないが、日常のトラブルを大事にならないようにすること)のためのの常識的、あるいは慣例的な方法がある。これが日本以外の文化圏では別の方法が確立しているので、そこへ日本式の方法を無意識的に持ち込んでしまったために失敗しているのだろう。こういう、両者が意思疎通をしたり紛争を回避したいするために使う、決められたひとまとまりの約束事をプロトコル "protocol" と言うのだけれど、日本語圏と他の言語圏では、紛争解決のプロトコルに違いがあって、特にこの「ごめんなさい」に関しては互換性が成立しにくいのだろうと思う。

「ごめんなさい」という謝罪の言葉そのものには、各言語に似たような意味の言葉があるのだろうけれども、対人関係としてトラブルが起きそうになったときの紛争解決プロトコルにおける謝罪の役割は随分と違うのではないかと思う。日本語の場合、誰かが誰かの行為に怒ったとすると、どちらが悪いかの判断はさておき、怒られた側が、まず最初に「ごめんなさい」と言って「謝罪」するところから始まる。すると、たいていの場合はそれで相手の気が済んで、「これからは気を付けろよ」だとか「まあ、こちらも悪かった」だとか、だいたいそういうあたりで問題が終結する。

ところが日本語圏以外では、こういう展開にならないことも多い。先に書いたように、「何に対してsorryになってるの?」とか、「非を認めた以上はそれ相応の…」とか、そういう流れになっていって、(反射的に言っただけで、謝罪とまでは思っていなかったのに)とか、(この程度なら謝れば当然済まされるだろう)というようなつもりだった日本語話者は、その反応に面食らって、場合によっては怒り出す。一度謝っておいてあとから怒り出すのは、言ってみれば「逆ギレ」なのだけれど、そこにはそれなりの理由がある。プロトコル違反をしたのはそっちだろう、と、それなりの説明もつく。

日本語にはカジュアルな紛争の解決手段として、まず最初に「ごめんなさい」と切り出して、「非は認めるから許せ」という提案をする。これに対して相手側も、日常的な小さな問題の大部分には許すことで対応する。この一連のプロトコルを「ゴメンナサイ・プロトコル」と呼んでみることにする。そして、自分は悪くないので謝る気さえ起きないとか、謝られても許す気になれないとか、そういうレベルに達した問題は、更に上位レベルの紛争解決手段へ移行させることになる。偉い人を呼んできたり、仲間に相談してみたり、警察や裁判に訴えたり、そういうことになる。

昔の映画に出てくるチンピラが「ごめんで済んだら警察はいらねぇんだよ!」というような恫喝をするシーンがよくあったが、実際に日常的な問題の大部分が「ごめんなさい」で済んでしまうので警察の出番も少なかった、というのが古き良き日本文化の一面だったのだと思う。許すことで憎悪の連鎖が断たれ、許されることで罪を認めて反省することが容易になる。これが繰り返されることで、社会はいざこざの少ない、穏やかなものになる。

ただ、このプロトコルにも当然一長一短はあって、この「ゴメンナサイ・プロトコル」が普及した世界が理想の世界かというと、必ずしもそうでもなかった。失敗しても謝れば許されるだろうと思うことで危機感が欠如して、ある種「甘え」の心理が発生しやすかったり、原因の追求がおろそかになって、同じ失敗が繰り返しやすかったりする原因になりうる。

また、たいていの問題は「ごめんなさい」と言えば済むのだが、中には微妙な問題もあって、自分が悪いとは思えない場合でも、面倒な衝突を避けたい周囲の人々から「謝れば済むんだ」という圧力を与えられて、正当な弁明の機会を失うこともある。そして無理をして謝った結果、許されるとは言っても、悪いことをしたと認めたという結論だけがあとに残ってしまったりして、嫌疑をかけられた側が泣き寝入りをすることになる。

また反対に、謝って済むような問題ではないように思える場合でも、「相手も謝っているんだからそれで十分だろう」という圧力を周囲から与えられて反論の機会を失い、そして無理をして許した結果、十分な補償もされずに被害を被った側が泣き寝入りをすることになる。

アメリカ合衆国などは訴訟社会で、トラブルがあったらまず言論で勝負して、その勝負の結果をお互い受け入れよう、というようなプロトコルがある。このあたりはソフィストたちが活躍した時代のギリシア文明あたりに源流があるらしく、ヨーロッパ文化にとってはかなり根の深いプロトコルなのだろう。お互いに意見は出し尽くして、そこで出た結論はお互いに尊重して、その後は感情的な恨みは無しにしよう、という理性至上主義というような理想がある。

ところが、そういう文化圏の中にある合衆国の裁判にも司法取引という面白いものがあって、これは「少し減刑してやるから正直に言え」という提案から始まるプロトコルになっている。あくまで自分は悪くないと言って断ることもできるけれども、提案を受けて「正直に話すから減刑してくれ」という返事をすることもできる。最初の提案が裁く側から与えられるところが少し違うけれども、「減刑してくれ」から先はゴメンナサイ・プロトコルと同じ構造になる。

過ちを認めて経緯を告白するだけで罰について一定の「減免」を認めることにより、真実を引き出しつつ短期間で問題を決着する手法として、ゴメンナサイ・プロトコル的なものが有効であると、現実主義のアメリカ文化も認めているということになる。ただし、訴えられた側から自発的に「ごめんなさい、正直に話すので許してください」という提案が出るほど文化に根ざしていないので、司法の側が明示的な取引を提案することでプロトコルを開始しているのだろう。

英語圏で言えば、実はもっとゴメンナサイ・プロトコルに近いものが存在する。それは、むしろ「ごめんなさい」の直訳に近い "Excuse me" という言葉から始まる。日本語圏のゴメンナサイ・プロトコルとは背景が異なるものの、プロトコルそのものはほぼ同じものと見ていいだろう。

これまで述べてきた通り、「ごめんなさい」で切り出す場合、(おそらく許されるだろう)という推測が先立っている。日本語圏の場合、この推測というのは仏教的な不瞋恚戒を共有しているだろうという前提があるのだと思う。意識的であるか無意識的であるかは別としても、「ごめんなさい」という言葉は(仏教徒なら謝る相手を許さないなんてことはできないだろ?)という暗示的な圧迫でもある。

"Excuse me" の場合、そういう態度に出られて許さざるをえない立場の人というのは、広くキリスト教徒というよりは、「紳士」の立場なのではないかと思う。キリスト教そのものは善と悪を比較的きっちりと分ける立場で、罪が何かしらの罰で償われるか、あるいは悔い改めることで罪を浄化しない限り、たかだか人間の身分で人の罪を許すことはできないと考えているように見える。紳士という人たちはもう少し領主的な志向の人たちで、紳士の要件を備えていることで、ただの民衆とは違うということになっている。基本的に、あらゆることに対して余裕があるというのがその要件になる。

紳士とは少々のことでは怒ったり悲しんだりしてはいけなくて、現実を直視しつつも機知に富んだユーモアを交えてそのあたりを笑い飛ばすのが至高、ということになっている。そういう紳士相手でないと通用しないのが "excuse-me protocol" なのだろうと思う。(あなたを紳士と見込んで頼みがあるんだが)というような含みがあって、「私を許せ」と切り出す。となると、いくらかでも自分を紳士と自認する相手であれば、それを許さない訳にはいかない。相手を選ぶものではあるけれども、ここにもゴメンナサイ・プロトコルとの同形が見られる。

日本の武家の理想像というのはもうちょっと堅物で、痩せ我慢を美徳とする。だから、自分の過ちを認めないのを潔しとしない一方で、許しを請うたり弁明をすることすら恥とするから、「御免なさい」ではなく「申し訳ない」と言ってしまう。「言い訳もできない」というのが謝罪の言葉になる。ただし、ここまで潔く過ちを認める相手を許さないのもまた恥なので、武士の情けによってこれも許される事が多い。どうしようもない事態であるとさすがに、切腹などそれ相応の「辱めを雪ぐ」機会を与えるような形の武士の情けというのもあって、仏教的なゴメンナサイ・プロトコルとはちょっと毛色が違うのだけれども、やはり基本構造は同じだろう。

明治までの日本には、このゴメンナサイ・プロトコル、言い換えると「許す美徳」というようなものがかなり自明なものとして残っていて、昭和にもかなりその残照は濃かったのだけれども、さすがに最近は随分とそれもすり減ってきたような気がする。仏教的な理想像というのは西欧文明化によってだんだんと薄れ、それと入れ替わるように軍隊教育を通じて日本中に浸透した武家的な痩せ我慢の美徳もまた、敗戦後に急速に解体されていった。それでもまだまだ日本は世界に比べるとゴメンナサイ・プロトコルが優勢な文化なのだけれど、それが減衰していく傾向に変わりはなくて、そろそろどこかでこのプロトコルの価値を再評価する動きが必要なんじゃないかな、というようなことを思った。

早い段階でまず相手を許すと決めるには、それなりの覚悟が必要である。「覚悟」とはつまり仏教用語である。そういう心理状態をすぐに作り出すことのできるようにする日常的な訓練のことを「修行」と呼んで、これもまた仏教用語になる。日本式ゴメンナサイ・プロトコルの根底には、どうしてもそういう仏教思想が顔を出す。形式的なゴメンナサイ・プロトコルが有効なものだとして、その理念や実現方法を説明するにあたって、どれだけ仏教用語を離れた現代的な語法を定義できるかが、結構な難題なのではないかと思っていたりもする。

--

ところで、「ありがとう」の英訳は "Thank you" であるとされているが、これも直訳してみると "How rare it is" であって、ちょっと意味が違う。このあたりも面白いのでそのうち書いてみようかと思う。
[PR]
by antonin | 2012-07-24 20:40 | Trackback | Comments(0)

ゴメンナサイ・プロトコル (Trailer)

日本人はちょっとしたことですぐに「ごめんなさい」という。これを英語に訳すと "I am sorry" になるとされている。けど、本当にそうなんだろうか。「ごめんなさい」を漢字で書くと「御免なさい」となって、現代風に訳すと、「お許しなさい」となる。丁寧な言い方ではあるけれども、要するに「許せ」と言っている。謝罪を飛ばして、いきなり「許せ」である。考えようによっては非常に厚かましい態度である。これは少し面白いと思った。

眠いので続きは後日。
[PR]
by antonin | 2012-07-19 00:42 | Trackback | Comments(0)

老害前夜

歳を取ると、色々と楽になってくる。

まず、日本のように儒教の影響が色濃く残る国には年功序列の気分が常識化していて、歳を取るというのはそれだけで地位の上昇を意味する。もちろんそういう単純な世界ではなくなりつつあるのだけれども、そうは言っても、保守的で穏健な組織というのはそこかしこに残っている。そういう場に身を寄せてみると、年齢の持つ暗黙の強制力というのかなんというのか、若造を脱するとそれだけで扱いが変わるとか、若い人が奴隷扱いされているのにそれに気付いていないとか、そういうことが多々ある。そこに物申してもいいのだけれど、緩やかに棹さして流れていると、まぁなんというか、楽なのである。

それから、生物的な限界のために、絶対的な威厳を誇った先輩たちが徐々に引退していく。職場から、であるとか、地域から、であるとか、この世から、であるとか。それはときに寂しいことではあるのだけれど、同時に、なんとも言えない重圧からの開放であることは間違いがなくて、そういうことで、楽になる。その抜けた穴を自分が埋めるのだという圧力はあるのだけれど、権力と尊厳みたいなものの追求をほとんど諦めた立場からは、そういう重圧は水中の10気圧みたいなもので、圧力の高さほどには苦しくない。

そして何より、ものを考えるのが楽になる。というのも、若い頃からそれなりに色々なことについて悩み、考え続けてきているので、多くの問題について、既に自分なりの答えを知っている。日々眼前に現れる問題は、大きく3種に分かれる。「答えのわかっている問題」「答えの分からない問題」「答える必要のない問題」である。若い頃は問題の大半が「答えの分からない問題」だったのだけれど、歳を取ると経験によってその比率が下がってくる。答えがわかっているか、答える必要がないか。このどちらかに収まる問題が増えてくるので、楽である。

そういう具合なので、歳を取るとどんどんと気分が楽になっていくのだが、楽をしすぎて考えるのを休みすぎると、いつの間にか考える力が失われていく。そして考える力を失ってしまったために、それでいて「答えのわかっている問題」を忙しく解決していく自分の姿への安心感から、自分の判断力が無力化しつつあるということに気づくことができなくなる。そういう負の連鎖が始まる。

ガロワ君とかゲーデル君とかのように、20代に閃光のような大業績を挙げる人もときどき現れるけれども、歴史上の天才たちの多くは30代から50代あたりの年代にacme(絶頂期)を迎えている。経験と論理力のバランスが一番整った年代なので、自然なことなのだろう。ただ、そういう「平凡な天才たち」にはよく見られることなのだけれども、若い頃には鋭い洞察力で世間の常識を打ち破っていたのに、その思想の後継者である若い人達の話を理解できなかったり、ある意見が「間違いだ」「くだらない」という結論を一度でも出してしまうと、その人の中では二度と意見が覆らず、しかもそういう人が過去の業績から既に業界の重鎮になっているために周囲の人々もそれに同調したりして、後の世から眺めるとちょっと残念に思うことも多い。

ケンブリッジのNさんだとか、ウィーンのMさんだとか、思想的にも業績的にも非常に優れているのに、後年に自分自身の思想の運用者としてちょっと難ありの状態に陥ってしまい、よりによって若い日の彼の思想の良き後継者たちを高みから攻撃したりなんかしていて、非常に残念に思うことが多い。

私も、結婚したり子供が生まれたり、金銭的報酬より精神的報酬を優先して仕事を変えてみたり、その過程で色々と苦しんで考え事をしてみたりして、その果てに、ようやく楽になってきたのだけれど、その安楽の先には自分の思想を正しく運用できなくなる自分の姿というものが薄く予言されていて、あぁ、まだまだ厄介があるんだなと思った。歴史上の偉人たちと違って、私はなんの業績も挙げていないので、もしかするとそういう心配はないのかもしれないけれど。
[PR]
by antonin | 2012-07-18 00:25 | Trackback | Comments(0)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル