安敦誌


つまらない話など
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身辺雑記

連休中は日中からコドモたちの相手をしなくてはならないので体力を使う。ところが今回はムスコ2号が保育園からもらってきたウィルス性胃腸炎が家庭内で流行してしまい、嘔吐やら下痢やら微熱やらが逐次多発して、違った意味で体力を消耗してしまった。病院へ行くほどの重症ではないのだけれど、レジャーを楽しむどころではなかった。

新しく買ったカメラを近所の公園に持ち出して、いろいろと公園内の風景を撮影して遊んだりしたのだけれど、そちらの詳細はまた別記事ということで。中から一枚だけムスメの写真を抜き出しておこう。5年前にはこんなだったのが、ずいぶんと大きくなりました。もうバタフライで25m泳げるらしい。

b0004933_2242146.jpg


近所の子供が金魚すくいをしたものの飼い切れないということで、我が家に貰われてきた。2日ほどは水の底でじっと息だけをしていたが、その後は元気に動きまわるようになって、餌も少しずつ食べるようになった。3匹のストレートな和金だが、1匹は尾びれにケガをしていて、回復にはしばらく掛かるだろう。

今年は西に置いたプランターのバラが、液肥を増やした効果があっていつもより多めのつぼみを付けていて楽しみだ。写真などは撮っていないが、今年は球根から育てたチューリップもたくさん咲いたし、落ちた種から勝手に発芽した金魚草やノースポールなども花を咲かせている。

今年はバジルがまだ発芽しないが、もう少し安定して気温の高い日が続くと発芽するだろう。こまめに水を撒くようにしよう。それから日日草もそろそろ発芽して欲しい。この冬は越冬に失敗して3年株を枯らしてしまったので、その鉢に少しずつ種を蒔いているが、まだ発芽しない。

そんな具合で、半径10km程度の黄金週間。
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by antonin | 2010-05-04 00:53 | Trackback | Comments(2)

プロパガンダとプロパンガスは似ている

その臭いでたいてい気付くのだが、知らないうちに下層部に蔓延して一気に火がつくと厄介だ。

とまぁバカなことを書いているうちに4月も終わりかけているわけです。どうしたらいいんだろう。喧嘩せずに済む程度に金持ちになりたい。しかし、来年の夏休みにはテレビが見られなくなるという恐怖のうちに育ったコドモたちは、ひょっとするとたくましい人間に育つのかもしれない。

--

BFグッドリッチというタイヤメーカーがあって、"BF"とはベンジャミン・フランクリンの略だと聞いたことがあった。けれども100ドル札に肖像のある、あのベンジャミン・フランクリンではなく、ミドルネームがフランクリンというベンジャミン・グッドリッチ博士が創業したゴムメーカーなのだということがわかった。ネットはこういう雑学を調べるのには便利でいいが、おかげで余計な知識だけが増えて実利を損ねているような気がしないでもない。

--

60代のインターネット利用率が急伸、PCより携帯を活用 【平成21年 通信利用動向調査】:MarkeZine(マーケジン)

こういう調査を見るたびに思うのだけれど、「60代」とか「20代」というのは、ある意味移動平均なんだということを忘れがち。つまり今年の60代というのは、去年の69歳の人達が70代に抜けて、去年の59歳の人達が50代から入ってきている。そこで統計をとると、もともと60代だった人達が新しくネットを利用するようになった部分も当然統計には入ってくるのだけれども、69歳と59歳の人達の違いが変動として繰り込まれる率もかなり大きい。

Windows 95が発売されてインターネットが身近な存在になった頃、現在60歳を迎えた人達は45歳の現役世代だったわけで、仕事でWindows 3.1と一太郎なんかを強制的に使わされていた世代だったりする。となると、当時55歳でワープロはちょっと、という世代が抜けて、代わりに現役PC世代が入ってきたのだから、そりゃネットの利用率も高まるというものだろうと思う。その寄与率が20%上昇したうちのどのくらいなのかというのは、60歳きっかりの人達のネット利用率を見てみないと判断がつかないけれども、とにかく年代統計の比較にはそういう問題がつきまとうことだけは間違いない。

「若者の~離れというが、今の若者はそもそもそこに近づいてすらいない」という話もこれを極端にしたものだろうと思う。今は65歳以上と言っても若い頃からテレビやオーディオなどに凝っていたような世代が入ってきているわけで、昔みたいに自宅では和服でくつろいでいるような世代はもはや絶滅危惧種というような状況でもある。60代のネット利用が増えたと言っても、そのうちのかなりの部分は「既に起こってしまった未来」が顕在化しただけなんじゃないかと思う。

--

明日吹く風は、どこか西の町で今日吹いている風だ。だからどうだ、っていうわけでもないけれど。
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by antonin | 2010-04-28 17:22 | Trackback | Comments(0)

注意欠陥優位型ADHD

自分の好きなことや目新しいことには集中できるが、他人から指示された作業には集中できないということを調べていくと、子供の発達障害の一種である注意欠陥多動性障害(ADHD)という情報に行き当たった。どうやら私は子供時代この症状を持っていたようだ。当時はADHDという診断名は日本でほとんど知られていなかったから、特にそれに対する対応を受けることなく、自分でなんとか自分をコントロールしようと試行錯誤しながら苦労していた。

ADHDは脳の発達障害によるもので、よく知られている症状に多動性がある。小学校の授業中に席に座っていることができず立ち歩いたりしてしまう。ADHDには多動性と注意欠陥を併せ持ったケースが多いらしが、中には多動性あるいは注意欠陥の一方が優位に現れるタイプも少ないながらあるらしい。私の場合は多動性はなかったが、注意の対象が短時間で移ろいやすい注意欠陥の症状が本に書かれている通りに当てはまった。

ADHDの原因は、先天的な要因と、胎児・乳児期の外因的な影響が考えられるらしいが、母も同じような問題を抱えているので、私の場合はおそらく遺伝的なものだろう。この注意欠陥優位型ADHDは、教育現場で問題となるような多動性が目立たず、注意力の維持が難しいという内面的で観察しにくい性質であるため、診断されないまま本人と親だけが苦しむという場合が多いらしい。

このADHD自体は、中枢神経刺激薬というものを与えると一時的に症状を改善でき、その状態で正しく自己コントロールする行動療法的な訓練を適切に行うと、障害の症状が緩和されて、問題なく成長できるらしい。しかしこれを本人の怠慢とみなして頻繁に叱ると、本人が自信をなくし、低い自尊感情、つまりLSE(Low Self-Esteem)の状態になってしまう。LSEになってしまうと、自我が自己を抑圧する方向に働いて不安神経症やうつ病になったり、自我が指示に反発する方向に働いて反抗挑戦性障害や行為障害、簡単に言うとグレるという状況になってしまう。

私の場合、LSEのために神経症になったり、それを克服しようとして過剰な努力をして結果として自己愛型の過活動状態に入ってはその反動で抑うつ状態になったりして、結果として双極性障害の症状になってしまったのだろう。LSEの影響で神経症が出たり回避性が出たり依存性が出たり自己愛性が出たり、そういう態度に周囲が反発すると孤立して妄想性が出たり境界性が出たり、とにかく人格障害のデパートみたいな事になってしまった。

しかし高ストレス下ではそういう障害が出まくりなのだが、ストレスがなければ特にそういう人格上の問題は起こらない。ちょっと発想が変わってるとか、約束をときどきすっぽかすとか持ち物を無くすとか、そういう注意欠陥本来の症状だけになる。

小学校で受けた知能検査では指数がクラスで一番高かった、と担任の教師から父母面談で聞かされたというから、そのあたりの特性がADHDの障害を部分的にカバーしてしまって、客観的には問題なしとして放置されてしまったところに、中年になった今にまで影響が残ってしまった理由の一つがあるのだろう。小学校卒業時の担任には、「ペーパーテストだけはできるからなぁ」というようなことを言われたらしい。宿題などは大嫌いで、図工も体育も苦手だったから、妥当な評価ではある。

そういう、瞬発的には能力が高いが、しばらくすると飽きてしまうというチグハグな脳味噌を抱えて、これからどう生きていったらいいんだという大問題が残る。しかも、この性質がどうやらムスメにも遺伝してしまっているらしい。そちらも大問題だ。学校の先生は専門的な知識を持っているかもしれないが、ヨメはそういう知識も経験もないから、ムスメは毎日怒鳴られっぱなしになっている。LSEにならないようにうまく育てていくのも大問題だ。

18歳未満は中枢神経刺激薬が処方可能らしいのだが、成人への処方は乱用問題があったため現在禁止になっているらしい。過去に医師にADHDの可能性について質問したことがあったが、「リタリンね、あれはダメだ」と却下された。もっとも、認知療法や行動療法で解決していくのが根本的な解決につながるらしいから、ストレスコントロールがあれば投薬が必須というわけでもないのだろう。しかし、医師は投薬しかしないし、カウンセラーは保険が利かないので高額な費用が必要になる。

さて、どうしたものだろう。やはり仏典を広く読んで実践してみるのが一番の方法なのかもしれない。

はじめに読むADHD(注意欠陥多動性障害)の本 (発達障害を正しく理解する)

榊原 洋一 / ナツメ社


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by antonin | 2010-03-27 21:30 | Trackback | Comments(7)

江戸前近景

浜離宮公園を一人で散歩すると、案外寂れた感じがする。浜離宮公園は「恩賜公園」であって、かつては天皇家の離宮だったのが下賜されたということになっている。離宮となる以前は将軍家の狩場で、更に以前はどこかの大名の土地だったらしい。それが今では東京都の管轄する都立公園の一つとなっていて、有料公園として運営されている。都立公園だと思えば手入れの行き届いているほうだが、天皇家の離宮にしては荒れている。

木々はどれも樹齢を重ねていて、枝振りも窮屈な剪定を受けていないためか自然な感じがする。足元に切り株があって、上を見上げると、周囲の木の枝が円く空間を空けている。その空間が何かというと、足元にある切り株がまだ生きた木だった頃に、枝を広げて日光を受けていた領域なのだろう。

花畑なども幾つかあるのだけれども、そのうちの一つが荒れていた。タイル状に花壇があって、花壇の中には銘柄の札が掛けられた苗木が植わっている。その花壇の中の苗は枯れ果てているのに、花壇の間を縫うように作られた通路の方に、勢い良く雑草が茂っていた。その雑草を靴で踏み倒しながら歩いていくと、少しグロテスクな外見をした大きいコオロギの類いが飛び跳ねて逃げていく。

ほぼ方形をした公園の一番海側に出ると、海が見える。かつて鴨場があった公園の周囲は海水なのだけれども、今では海というより運河の一部という感じしかしない。海沿いに並んだベンチから海の方向を見ると、埋立地に立てられた倉庫街が見えるばかりで、海面にも波がない。波がないので波音もない。ときどき魚が跳ねてビチャンというような音がするだけで、その音の響きによって周囲の異様な静けさに却って気付く。

そういうヌメヌメとした海面にときどき波を起こすのが水上バスで、突堤に開けられた船幅ぎりぎりの通路から公園脇の停留所に向かって入ってくるときにだけ、ヌメッとした水面に波が立つ。かつての灯台跡地には正確に八等分された位置に礎石が残っている。その小高いところに立って、水上バスの航路を眺める。

公園内には外国人観光客が多い。東京にはもはやオリエンタリズムを感じさせる場所が少なくなっているから、観光客はこういう場所を見つけてくるのだろう。池の中島には茶屋があり、抹茶が飲める。そこで一人で正座して茶を待っていたら、正面にフランス語らしき言葉を話す一団がやってきた。こちらを見真似て正座する。正座ではつらかろうと思ってこちらが胡座に座り替えると、その動作をすっかり真似て彼らも胡座に座り替えた。これも何かの作法だと思っているらしい。神妙というよりゲラゲラ談笑しながら真似しているのが、見ていても面白い。

東京湾には今も埋立の土地が広がっているから、古い埋立地の周辺にはもはや海辺という感覚が残っていない。かつては海に向けた砲台を据える場所だったというお台場にも海浜公園があるが、そこから眺める海も似たような感じになっている。ここにはまだ緩やかな波が到達していて、羽田に向かう海底トンネル入口の背面に渡された人道橋から海を見ると、いくらか波の当たる音がする。人工的な磯を眺めると、昔に比べて東京湾の水も透明になったのがわかる。

竹芝のフェリー乗り場から海を眺めていると、東京湾クルーズに乗り込もうという、同窓会と思しきご婦人の一団が談笑している。フェリー乗り場というのは駅にも似ているけれども、駅と違うのは波風によって頻繁に欠航があるというところだろう。その日も東京は晴れていたが南洋には台風が迫っていて、伊豆諸島へ向かう便は欠航していた。それでもベンチにはそれなりの密度で人が座っていて、こういう空間というのは都区内では貴重なのだろう。
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by antonin | 2010-03-19 10:42 | Trackback | Comments(0)

役立たずな日曜日

S-VHS-Cで撮り溜めた実家のビデオ記録を、HDD経由でDVDに落とす作業などをしている。本当は子供たちを遊びに連れて行かないといけないのだけれど、どうにもしんどくてヨメに任せてしまった。このビデオカメラを買った頃には私はもう高校生になっていて、記録のほとんどは歳の離れた妹の分になっている。

一部を再生したところ音声だけが聞こえてきて画像が映らなかったので、しばらくダビング作業をせずに放置していた。今日気が向いて改めて再生してみると、そういう現象が起こったのは先頭部分の消去不良部分だったらしく、大部分は正常に再生できた。というわけで、アナログからデジタルへのコピーを実施してみた。記録時間とコピーに要する時間が同じだけ掛かってしまうのは仕方がない。全部で50時間分はあるだろうけれども、編集は後回しにするとすればテープの交換以外は流しっぱなしで済むので、それほどの手間にはならないだろう。非常に無駄な時間ではあるけれども、心に溜まったアクの処理としてはちょうどいい作業時間になる。

ネットの喧騒を少し離れ、小説などを読んでいる。

中島敦 虎狩

中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫)

中島 敦 / 筑摩書房


私小説的な作品なので、客観的な記録とはまた違った、時代特有の雰囲気のようなものが伝わってくる。並行して、現在の人物の自伝も読んでいる。

在日 (集英社文庫 か 48-1)

姜 尚中 / 集英社


自伝なので、本人に都合のいい部分しか書かれていないのは仕方がない。それでもこういう情報を知っているのと知らないのとでは、こちらの受け止め方も変わってくる。実家の近くにうまい焼肉屋があって、在日韓国人が経営している。こちらは単に焼肉を食っているだけで、その店を経営しているのが何人かなどということは気にならないのだけれども、そういう態度だけでは通用しない場面というのもあって困る。非暴力主義でインドを独立に導いたマハトマ・ガンディーを撃ち殺したのは、ヒンドゥー側の強硬派だったらしい。

公明党・民主党と朝鮮・韓国利権の問題はユダヤ陰謀論と似ていて、どうも捕らえにくい。虚実いろいろと情報が入り交じっていて、しかも表裏どちらの情報も一方的で感情的な声になりがちなので、どこまでが本質でどこからが虚飾なのか区別がつかない。結局は人間のやることなので、身内に対する誠実さと部外者に対する貪欲さが入り交じった、ごく普通の政治力学の一種に違いないという気はしている。

先日、お手軽な日本史の本を読み終えた。

2時間で教養が身につく 日本史のツボ (青春新書INTELLIGENCE)

童門 冬二 / 青春出版社


私は日本史の知識が薄いので、少しでも全体的な流れに付いて知りたいと思ってこの本を手に取ったのだけれども、歴史解説というより歴史エッセイという感じで、教養になったかどうかというと怪しい。けれども確かに短時間で楽しく読み終えることができたので、それは良かった。ここでわかったのは、歴史上で天皇が担ぎ出される状況というのは、純粋に天皇への崇敬というよりも、時の反体制派が大義名分を我が物にするために正統性の権化である天皇を担ぎ上げるだけのものなのだな、ということだった。

制度疲労した政権を破壊して新政権を樹立する、国家の新陳代謝に天皇制が何度も利用されてきたというとはわかった。恐らく現在もそういう文脈上にあるのだと思う。現在の反体制派が攻撃している疲労しきった制度とは、肥大化しすぎた社会主義的再配分システムなのだろう。このシステムは実際に日本経済と日本国民の生活に大変な重荷になってしまっているので、それはそれで意義があると思う。

その一方で、生身の人間がその属性によって罵詈雑言や憎しみの対象になってしまうことについては、どうも生理的な嫌悪感がある。けれどもこれもお互い様という部分があって、どうも一筋縄にはいかない。経典を読んで心の平静を養っても、なかなか人間の本性というのは変わらない。瞋恚、邪見、妄執は簡単に改められるものでもなく、相変わらず日替わりの感情を抱えながら不便に生きている。

気温が上がって、バラの木に新芽が出てきた。スギ花粉も相変わらずだが、歳のせいか、最近は以前ほど過激な反応は出なくなった。精神的にはともかく、気候的には一番いい季節になってきたようだ。
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by antonin | 2010-03-14 14:45 | Trackback | Comments(0)

安敦誌近代化計画

見た目はほとんど変わっていないのだけれど、古くから使ってきたテーブルレイアウトのスキンを書き替えてCSSベースのレイアウトにしてみた。本当はXHTMLのValidation Errorが少しでも減るように書き直したかったのだけれども、exblogのコアが吐き出すコードがXHTMLではなくHTMLベースなので、そちらは手の出しようがなかった。

あまり多くの環境で表示してみたわけではないので、何か表示の異常などがありましたらお知らせください。
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by antonin | 2010-03-08 14:23 | Trackback | Comments(0)

音声的な、あまりに音声的な

アクセス解析を使って逆リンクを検索していると、「音声言語的な文章が云々」という議論にぶつかった。これはひょっとして自分のことだろうか、と、また自意識過剰気味に反応してみる。

いろいろと本を読んだり、ウェブサイトを巡回したり、そういう事は毎日やっている。そうすると、寝る直前だとか目覚めた直後だとかに、面白かったり厄介だったりする様々な考えが浮かぶ。そういう考えを個人的に「妄想」と呼んでおり、生活圏内の人間に話してもまず理解されないので、ここに書き記して公表することで満足することにしている。

ところが、この作業に平均して1時間くらいを要する。それ以前に純粋に思考している時間が2時間くらい加わるので、都合3時間くらいはひとつの妄想ネタに費やしていることになる。ところが、日常生活の中で3時間という時間をまとめて確保することは難しい。ほとんどが家事や育児や睡眠という必須作業の割り込みによって中断されることになる。

となると、どうしても頭で考えていることを頭で考えている速度で打ち込み、後日余裕があれば推敲する、という運用スタイルになってしまう。私は、自分の文章を読み返して日本語としてまともな形式に修正するのに、だいたい書き下しの3倍程度の時間を要する。となると、これにも平均して3時間ほど必要ということになる。そこまでしてようやく、文章が一般書籍のような文体になる。これを週に2本以上書いてしまうと、生活が崩壊する。

そういう推敲を掛ける前の文章というのは、思ったことが思った順で単純に書き並べてある。そういう文章は一文が長くなりがちで、最初に書いた句と最後に書いた句が重複して変な日本語になってしまう、というようなことも多発する。句読点による区切りが変なことになっているということも多く、結果として、意味を取りにくい、誤解を招きやすい文章になってしまう。もちろん誤変換や単純なタイプミスもある。そういう単純なものでも、最低2回くらいは文章を読み直さないと除去しきれない。意味を追う過程と、字面を追う過程というのは、どうしても別々に用意しないとそれぞれの精度が上がらない。

という具合で、書き上がって見直しスウィープの1巡目あたりで割り込みが発生したような荒っぽい文章が多数、ネット上に晒されていくことになる。時間があれば後日推敲するが、あまりそういう時間をとる機会は多くない。それよりはむしろ新しいネタを投下するほうに時間を割いてしまいがちになる。それでも書き下し時間内に割り込みが発生し、非公開設定のまま中断しているようなネタが月に数本分は眠っている。

そういった、会話と同じように思考の速度に近いスピードで打ち込んだ文章が、おそらくは「音声的」と捉えられているのではないか。それが逆に音声読み上げを利用している読者に好評だったりすることもあって、まぁ別にいいやという態度をとっている影響も、少しはあるかもしれない。こういったものを視覚的に読んでいる人の中には、「句読点の多い文体」と呼んでこれを忌み嫌う場合もあるらしい。太宰治の書くものが、ちょうどそういう文体なのだそうだ。

漢字と送り仮名で文節の切れ目を明示できる場合は句点を使わないが、平仮名が多い文章の場合には文節区切りの明示という意味で、音声的なリズムとは別の意味の句点を使う場合がある。さらに修飾語の修飾範囲を示す場合とか、そこまで気を回して句点を打てる場合もあるが、それはだいたい推敲の3巡目以降となる場合が多い。


という具合でして、箇条書き主体の技術文書以外を職業的に書いたことがない私は、論説的作文でも勢い重視の音声言語的文体になりがちである、という話でした。
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by antonin | 2010-02-17 15:13 | Trackback | Comments(0)

ネクラフィリア

どうもいけませんな。

そんな私を尻目に株価がメキメキ上昇している。

メモリの消費量が2GBを超えっぱなし。たいしてアプリ起動してないのに。4GB積んどいてよかった。

ムスメが布団に足を突っ込んでくるのでこんな時間に目が覚めた。自分の布団で寝ろと。(愛)

こんなオヤジに誰がした。俺がした。自己責任。

四十歳になると、自分の顔に責任を持たないといけないらしい。それは断る。断じて。

正月は銭洗弁天で初詣をしてきました。ゼニ洗ってきました。

福澤先生に顔を洗って出直してもらいました。最近働きが悪いですよ、先生。

「おん そらそば ていえい そわか」と百遍唱えてきました。変な目で見るなよと。

今日はモルモン教宣教師のお兄さん達になぜか呼び止められて、ちょっとお話してきました。

「ナイスガイですね」と言われました。握手されました。本当に虹彩が青かった。

うちは真言宗ですけど、仲良くやりましょう。

根暗大好きネクラフィリア。
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by antonin | 2010-01-15 05:51 | Trackback | Comments(3)

モロゾフ、トロイ

そういう検索キーワードでここへたどり着いた人があった。おそらく、洋菓子メーカー「モロゾフ」の公式サイトが改竄されてトロイの木馬が仕掛けられていた件を探していたのだろうけれども、おそらくヒットしてしまったウチの記事はこれ。

安敦誌 : 勇者と甘味

最近はgoogle先生の検索精度が高止まりして、こういう誤爆の機会が減ってきたので、当方としては若干寂しい思いがあるが、まぁこれが正しい姿なのだろう。
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by antonin | 2010-01-06 18:46 | Trackback | Comments(0)

ミリンダ王と渡辺夫妻の問い

去年の後半は脳がパンク状態で本など読めた状態ではなかったが、最近は少しずつ本が読めるようになってきた。文章を読んでも内容が頭に入りにくかったのが、集中して読めるようになってきた。図書館に行って本を読むのだが、つい魔がさして本を借りてきてしまった。これでは未読が減らない。

時間と人間 (自然選書)

渡辺 慧 / 中央公論新社



三部構成になっていて、第一部と第三部が夫の渡辺慧さん、第二部が妻の渡辺ドロテアさんによるもの。各部が三章構成になっていて、各章は雑誌に寄稿された論文を若干改訂したもの。

第一部は物理的な時間と人間から見た時間に関する情報物理学者さんの考察で随想形式になっている。第二部はドイツ文学、特に近代哲学と仏教の関係を時間論も交えて論じていて、これも興味深い。第三部は確率論を通じた時間解釈で、慧さんがIBM在職中のシミュレーションで得た知見をもとに時間論が記されている。条件付き確率で若干の数式というか記号が出てくるが、説明上使われているだけで演繹や証明は無いので読みやすい。

時間論、可逆・不可逆論、確率的情報論、ボルツマンのH定理、生体のネゲントロピー現象などの興味深い話題に加えて、奥さんのドロテアさんによるドイツ哲学と仏教の関係に関する論文が挟まれていて、どれも非常に興味深い。偶然、同時に借りてきた「ミリンダ王の問い」にさえ言及されている。なんという奇遇な、なんという縁深い。遅読の私には2週間程度では読み切れないので、できれば手許に置きたい本だが、Amazonで中古価格を見ると¥8,000よりとなっていて手が出ない。まぁ他に借りる人も少ないだろうから、図書館から繰り返し借りてくればいいだろう。

ミリンダ王の問い―インドとギリシアの対決 (1) (東洋文庫 (7))

平凡社



世界史の雑学本を整理していたら、「ミリンダ王の問い」という仏教経典があることを知ったので、図書館で借りてみた。アレキサンダー大王の東征によって獲得された地域は大王の死後分割されたが、そのうち最も東になる西北インド、今のパキスタン東部まで差し掛かる領土を引き継いだのが、ギリシャ人の王メナンドロス(ミリンダ)。そのミリンダ王が当地の賢人を招いて問答をしたうち、最も優れた答えをしたことで歴史に名を残した仏僧、ナーガセーナとの問答集。3分冊になっている第1冊だけを借りてきた。

ギリシャ哲学を理解するミリンダ王が、ギリシャ的常識から見た仏教哲学の根本思想に対する疑問と、それに答えるナーガセーナの問答があまりに優れていたので、その対話がパーリ語仏典として残されたという。漢訳仏典にもいくらかの資料があるらしい。この対話にはミリンダ王も感銘を受けたらしく、その後は仏教を保護する善王として扱われている。死後にはその遺骨が仏舎利のように仏教徒に求められたという伝説も残っている。

ゴータマ・ブッダはバラモン教の複雑な教義や戒律を否定し、絶対的な真理などない、不可知な世界にとらわれるな、というような事を説いたが、ブッダ入滅後に再発展した仏教は、必要なら神秘世界への信仰も利用して、理解が可能なようであれば絶対的真理はないという仏教究極の悟りへ至るのもまた良し、という具合のところへ回帰していく。

ミリンダ王とナーガセーナの対話では、比較的原始仏教の世界に近い、唯物にも近い無常の仏説が比喩を多用して説明される。翻訳も現代的で、仏典らしからず水の如く読みやすい。この本もまたいずれ読み返してみよう。
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by antonin | 2010-01-06 18:39 | Trackback | Comments(0)


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