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浮世離れ補正

かねてより「耳が悪くなった」と嘆いていたのだが、単にスピーカーやイヤフォンなどの再生デバイスが劣化していたからという可能性が濃厚になってきたので、そのあたりを少し。

しばらく前からSONYのイヤフォンを使っているのだけれど、これを使うようになってから結構自然に音楽が聞けるようになった。

SONY 密閉型インナーイヤーレシーバー XB90EX ブラック MDR-XB90EX/B

ソニー

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それで最近になってCDのロスレスエンコードをえっちらおっちらやっているのだが、それでもONKYOのPCスピーカーや、近所のスーパーで買ってきたJVCの廉価版ヘッドフォンだと、相変わらず音がくぐもって聞こえる。ただ、古いCDをエンコードしたクラシックなどではそういうことになるのだが、比較的最近のポップスなどを聴くと、そういう再生装置でも自然に響く。どうやら最近の再生装置はポップスの音源をリファレンスとして設計されているから、クラシックやジャズをリファレンスとして設計された古い装置と違って、オーケストラ演奏などを鳴らすと音がくぐもって聞こえてしまうものらしい。

ONKYO WAVIO アンプ内蔵スピーカー 15W+15W ブラック GX-D90(B)

オンキヨー

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JVC HA-S200-B 密閉型ヘッドホン 折りたたみ式 DJユースモデル ブラック

JVCケンウッド

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スピーカーなどは装置のつまみで低音と高音の比率が調整できるのだが、その程度だとあまり改善しない。今のPCで使っているマザーボードにはRealTekのHD音源が載っているので、その設定アプリのイコライザ機能を使って、プリセットのイコライジングカーブではなく、耳で聴きながら一番よく聞こえるレベルを探ってみた。そうすると、ONKYOスピーカーでもJVCのヘッドフォンでも、ちゃんとクラシックを鳴らすことができる。ロスレス音源の細かい音場まで拾えている。そして、そういう補正を掛けると、今度はポップスがうるさくて耳障りな音になってしまう。

ヘッドフォンのイコライジングカーブはこんな感じ。

b0004933_23315245.png
中低音が若干盛り上がっているのは、このあたりがズシズシ鳴っていると楽しいので趣味的な補正という感じだが、高音を引っ張り上げているのはポップス向きにアレンジされた再生装置の逆補正成分ということになるんだろう。8kHバンドを中心とした高音域を引っ張り上げると、音が非常にクリアになった。ピアノの高音でもヴァイオリンの高音域合奏部分でもスネアドラムのアタックでもしっかり聞こえるようになった。500Hzバンドをつぶすだけでもかなり音が明確になったので、ポップスではこのあたりを強調するとバランス良く鳴るのだろう。

一方、SONYのXB90EXを接続すると、中低音の補強を少し入れたほうが音がリッチに感じる以外は、特に補正なしでクラシックが聴けた。この場合も、逆にポップスのほうで補正を入れたほうが聴きやすかった。RealTekのプリセットにある「ポップス」は、このフラット特性の装置でポップスを聞く場合の補正になっているようだった。逆に、廉価版の装置はこのあたりの補正が、電子的あるいはアコースティックな特性を使って、デフォルトで掛けてあるのだろう。

ところで、私があまりCDを買わなくなった00年代、CD業界にはちょっとした異常な現象が見られたのだという。CDショップの試聴コーナーでの印象を優先した、音圧競争というのが起こっていたらしい。

Bostonの名曲「More Than A Feeling」に見るラウドネス(音圧)競争の現実 | 山崎潤一郎の「また買ってしまった。」

ブログ 懐かしいCDの美しい波形を偲ぶ会

試聴機を使った店頭販売で売れるための味付けが暴走した結果だということらしい。そういえば、以前のテレビ販売でも似たようなことが起こっていた。最近は通販が強くなってきたが、量販店全盛の時代には店頭で見栄えのする、とにかく明るくてとにかく色の鮮やかなモードを持った機種が売れるので、リビングで見ていると目が痛くなるくらいのチューニングをデフォルト設定に据えるメーカーが増えて、描写力の高い領域を中心に据えたような画質重視の機種が売れなくなっていた。プラズマディスプレイが滅びたのも、まあ電力消費の問題もあるけれども、この店頭画質で液晶に比べて劣ったというのが主要因だったらしい。

一方で、10年代に入るとこの傾向には一定の落ち着きが見られるようになったらしい。その理由はよくわからないけれども、iTunesが普及した影響ではないかという気はしている。ダウンロード販売では試聴用に独自のフォーマットを使えるので、販売音源そのものを歪ませて店頭アピールする必要がないということもあるが、それよりも影響が大きいのはiTunesのランダム再生だろう。

あれはどういうアルゴリズムで選曲をしているのか知らないが、少なくとも単純な乱択ではなくて、再生回数や再生時間帯などを考慮しているらしい。しかしそうは言ってもミュージックライブラリ全体から曲を拾ってくるので、曲から曲に移った時にいきなり音量が変化すると困る。ということで、iTunesはCDからトラックをリッピングする際に平均音圧レベルを記録しており、ランダム再生時はこの音圧が均等になるように補正を掛けて再生している。

この音量補正のために、CD音源で音圧競争をしてもポータブルデバイスでのランダム再生時にはiTunes様によって自動キャンセルされてしまう。そうなると、残るのは一定音圧レベルでの音質ということになるので、あまりに音圧上限に張り付いた曲というのは印象が良くなくなってしまうのだろう。個人的にそういう曲をあまり聞かないのでよくわからないが。

--

最後に。イコライジング調整用音源の紹介のためにスターウォーズ Episode V 「帝国の逆襲」の finale を調べていたら、面白いものを見つけた。

『スターウォーズ/帝国の逆襲』(Ending) by Moment String Quartet (弦楽四重奏ver) - YouTube

スターウォーズの音楽はそもそも管弦楽組曲みたいなものなのでクラシックに親和性があるのだが、これは弦楽四重奏に編曲されている。そして動画を見ると演奏しているのは若い女性たちで、こんな昔の男の子仕様の曲を何でまた、と思ったら、ちゃんと黒幕(失礼)が存在していた。

_... m o m e n t ...._

びよら弾きの備忘録

どおりで愛情あふれる編曲なわけだ。これは男の子だった経験がある人間にしかできない編曲だろう。「ベイマックス」にしてもそうだけれども、性差別とかそういう話は抜きにして、趣味における男女差というのはどうしても存在するものなのだ。

ちなみに原曲はこう。

the empire strikes back finale music - YouTube

あのクソ派手な管弦楽を室内楽でよくまああれだけ再現したもんだ。素晴らしい。

そういえば調整用音源の紹介を忘れていた。上に挙げたヘッドフォン用イコライジングカーブの作成にはデュトワ/MSOでラヴェルのボレロ後半を繰り返し鳴らしていた。まあ、有名だから張らなくてもいいか。

ポップス評価用の曲はこれ。

Avril Lavigne-Take Me Away Music Video - YouTube

PV初めて見た。女の子は大変ですな。しかし、これでも10年以上前になるのか。

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by antonin | 2015-01-25 01:21 | Trackback | Comments(0)

音楽の言語性

アナと雪の女王の劇中歌がえらい流行して、やれ和訳が原詩のニュアンスと違うなんていう批判があったが、それは悪いというより優れた翻訳であるという証明だろうと思う。商業音楽というのは世につれ人につれ、時代の空気に寄り添う義務というものがあって、歌詞が翻訳されたら、そこに込められた感情も微妙に入れ替えられるべきだろうと思う。そもそも、翻訳というのはそういうものなのだろうと思う。本当に原文の意味を守ろうとすると、単語は基本的に音訳中心になり、意味の通じない部分は岩波文庫のように別途詳細な解説が必要になる。

翻訳というのは、原文のリズムを守ろうとすれば、ある程度意味を翻してやる必要がある。しかも、音楽という強力なリズムの縛りがある歌詞の翻訳ではそれがなおさら重要で、しかも映像が付くとなると、キャラクターが口を大きく開けているタイミングで「ん~」などという詩を当てることも許されなくなる。しかも商業的な成功のために、日本の文化的な背景にも寄り添う必要がある。そして、そういう難しい制約を高度に乗り越えた翻訳に成功したからこそ、あの曲はヒットしたのだろう。

そういう要素はあるとして、あの「ありのままで」のヒットには、曲そのものの要素も大きかったんじゃないかという気がしている。最近の日本のポップスはあまり大ヒットがなくなっているが、その要因の小さくない部分が、ポップスの「本格化」にあると思っていた。そして、「ありのままで」の曲構成というのが、あまり「本格的」でないという特徴があった。

25か国語で聴く "Let it go" という映像があって面白かったが、あれを聴くと、北京語バージョンが一番本格的なポップスの曲調で歌われていて、日本語版が世界一エキゾチックな発音で歌われている。そういうのが好きなネット上の人たちに kawaii とか言われていたのだが、実は「原曲」に当たる英語版そのものが、かなりエキゾチックな音で歌われているのに気付く。そもそもあの話は北欧民話を土台にしていて、それは歴史音痴で地理音痴なアメリカ市民でもさすがに理解可能なように作られている。そして、その北欧の、特にサーメの土地に根差した民族的な舞台の印象を作るのに、「アナと雪の女王」で使われる音楽も一役買っている。

『アナと雪の女王』25か国語版ミュージック・クリップ - YouTube

サーメ、英語でいう Finnish の人々というのは、血統でいえばかなり純血に近いゲルマン人が多いけれども、文化的にはフン族と呼ばれたアジア出身の民族文化が残っている。言語的にも、母音が多い音節言語に近い音を使うらしい。あの映画の音楽が少しでもフィンランド風なのかどうかはあまり自信がないけれども、「アメリカ人にはそう聞こえる」ような味付けはされているだろう。そして、あの映画はミュージカル風にできている。このミュージカルというのは、アメリカのポップスとは別の先祖を持っていて、そのあたりもこのミュージカルアニメの音楽後世にある種の影響を与えているように思う。

ヨーロッパから新大陸に渡った人たちが独立戦争を起こして新国家を建設したけれども、この新しい国は旧世界に比べて文化資本的に貧しいということを、産業資本を積み上げて新しい貴族階級に至った人たちがかなり気にしている時代があって、当時ロンドンで人気のあったドヴォルザークがジャネット・サーバー夫人に招聘されてナショナル音楽院の院長に就いたのにもそういう事情があった。

そのドヴォルザークがインディアン、今でいうネイティブ・アメリカンたちや、黒人たちの音楽に目をつけ、交響曲第9番ホ短調「新世界」の中にも日本のヨナ抜きにも似たペンタトニックだとか、シンコペーション、いわゆる裏拍などを取り込んでいた。こういうのが白人ジャズの歴史にいくらか影響しているらしい。そして、ジャズの影響からちょっと距離を置いたところから、ロックが出てくる。このロックというのが、アメリカ合衆国の政治的軍事的な覇権とともに、20世紀後半世界の音楽を規定していく。

同じ時代、日本の音楽というのはどちらかというと追いつけ追い越せの文化の渦中にあって、アメリカやイギリスの音楽を日本人にも理解できる程度にやわらげて「翻訳」するのが仕事、というようなところがあった。古くは大正時代のワルツあたりからこうした「なんとなく英語っぽい発音」による楽曲というのが売れていたらしいが、大ヒットレベルになったのはサザンオールスターズあたりからなんじゃないかと思う。個人的にはあの発音が大嫌いだったが、桑田佳祐さんが紫綬褒章を受章するに至って、時代も変わったものだと思った。

そして、その流れというのはマドンナ・クローンの浜崎あゆみさんあたりを経て、アメリカ育ちの宇多田ヒカルさんのあたりで完成を見たのだと思う。ラジオから流れてくる黒人ラップはかっこいいのに、翻訳された「だよねー」を聴いて脱力した時代もあったが、最近の日本語ラップはよくこなれていて良いと思う。良いのだが、難しくなったという気はする。ラジオで聞いて、カラオケなどでおいそれと物まねできる水準のものではなくなってきたように思う。

19世紀後半から20世紀のアメリカ音楽というのは、クラシックの呪縛から英語を話すアメリカ人のための音楽を創造する戦いの歴史みたいなところがあって、アメリカ合衆国という統治システムが爛熟した現代のアメリカ音楽もまた、アメリカ英語で歌うための最適化が完成した音楽になっている。そして、ある程度国際化を果たした日本の商業音楽もまた、かなり本格的にアメリカ音楽を再現できるようになったのだが、どうもこの音楽というのが21世紀初頭の日本国民からは遠いところまで行ってしまったような気がしていた。

日本人に歌いやすい音楽というのは当然日本語の歌であり、日本語で歌を歌う以上は、子音で終わる閉音節というのは出てこない。どちらかというと、「朗々と」という形容が似合うような、長い母音を複雑な節回しで修飾しながら引っ張っていくような音楽のほうが歌いやすい。歌会始で「歌われる」和歌のように、子音はほどほどに、美しく母音を引き回すのが日本語の音楽というものになる。

ところが、長い戦後を終えて日本の商業音楽界が到達した音楽文化は、ゲルマン語族であるアメリカ英語に極度に最適化された音楽に極めて近いものになっている。そして、あまり英語が得意ではない日本の一般市民は、そのゲルマン的な音楽についていけなくなってきている。そこへ、「ありのままで」が大ヒットした。要は、歌いやすいのだろうと思う。

"Let it go" というのは、20世紀のアメリカがクラシックの呪縛を踏み越えようとする過程で生まれた、ミュージカルの音楽をベースにしてる。ミュージカルという演劇は当然オペラを源流としていて、その音楽劇を現代アメリカ風にアレンジしたものになっている。そして、アメリカがオペラを輸入した時代の旧大陸のオペラ文化というと、ヴァグナーかロッシーニか、そのあたりということになるのだろう。

ヴァグナーはドイツの人なので、それまでのオペラから少し離れたところで曲を作るようになり、弦楽合奏が細かいリズムを刻みながら和音を彩るというような新しい技法を導入したけれども、それでもこの人はベートーヴェンをひどく尊敬していて、あの歓喜の歌のような、古い時代のライン流域の歌謡もまた愛していて、比較的母音を朗々と引くタイプのメロディーに抵抗がなかったようだ。

そして、そういうオペラの源流はというと、やはりバロック時代のイタリアにある。モーツァルトはフランス風の絢爛豪華な器楽編曲とイタリア風の愉快なオペラをミックスして、ドイツ語の脚本でオペラを作曲したが、それでもまだ時代的な制約からは自由ではなくて、基本的な構成というのはゲルマン独自のものではなくてイタリア風の旋律にあった。

イタリアオペラというのは、もちろんイタリア語で歌われるもので、イタリア語というのは地中海語族の母音豊かな言語である。物語の山場では、歌手は母音を朗々と歌い上げる。悲劇でも、感情的なアリアは豊かな母音で歌われる。あの極端に技巧的なオペラの発声というのは苦手だが、それでもイタリアオペラの旋律というのは美しく感じる。その美しく感じる理由はもちろん器楽にも声楽にも合うメロディーにあると思うのだが、母音の豊かなイタリア語と、同じく5つの母音に深く依存した現代日本語の類似性にもあるような気がしている。

イタリア語と日本語の母音構成が似ている理由が、明治期の「ローマ字」の輸入にあるのか、あるいは有史以前のユーラシア文化に源流があるのか、はたまた単なる偶然なのか、そのあたりはわからない。けれども、イタリア語と日本語の音は、アメリカ英語などに比べればかなり似ていると言える。濃音や激音があり閉音節も持つ朝鮮語などより、音だけならよほど近い。ギリシア語にもこの傾向があって、古代エジプトの言語もそうした音節言語として解釈できるらしい。ポリネシアの言語ではこの母音依存の傾向はより極端になる。なので、個人的にこういう母音の豊富な言語を海洋言語と呼んでいるのだが、海上生活が母音を要請して、森林もしくは雪国での生活が子音を要請したのかという、そういう言語発生上の合理性があるのかどうかというところまではわからない。

ともかく、ヨーロッパ音楽の源流にはラテン帝国の公用語であったラテン語のなれの果てであるイタリア語があって、その影響というのは結構現代の近くにまで及んでいたのだろうと思っている。そして現代アメリカはその呪縛をほぼ完全に振り切っていているのだが、その着地点というのは、日本人にはむしろ馴染みにくい音になってしまっている。イタリア崩れくらいの音楽のほうが日本人には合っている。そこに、南欧風の明るい長調ではなくて、ケルト系やスラヴ系の短調含みの曲調が乗ると、さらに性に合うように思うが、そこまで行くとやや古臭かったり田舎くさくなったりするので、加減は難しいだろう。

そして、バルト海や北海に面したサーメの土地を主題とした、ミュージカルの系統を持つ音楽として "Let it go" は作曲された。そして、そこに臆面もなく日本語らしい歌詞が乗せられた結果、「ありのままで」は大ヒットした。まあ、この曲も細かい部分は英語に最適化した最近のリズムを持ってはいると思うけれども、その部分が古臭さを排除するのに役立っていると思うし、肝心な部分での母音の引張りを引き立てているようにも思う。歌っている人が歌舞伎役者の家系に生まれた女性というのは偶然の部分が大きいだろうが、同時に発表された「本格的」バージョンのほう(エンディング・バージョン)がそれほどヒットしていないところを見ると、この見立ても悪くないのではないかと思う。

あの大国であるアメリカはアメリカで、本質的に異国文化である歴史的な音楽文化の受容に苦労していたのだとするといくらか面白いし、そこに迎合した末に反旗を翻しているような日本のポピュラーミュージックの流れもまた面白い。世代文化というのは親世代の文化への反発と受容を一生かけてやっていくようなところがあって、その縞模様のようなものを眺めるのは、少しだけ呆れるようなところもあるけれども、まあ面白い。

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by antonin | 2014-12-07 17:24 | Trackback | Comments(0)

歌え 歌え 歌え

普段はクラシックを聴くことが多いが、時々ジャズも聴く。最近は小編成のも聴くようになったが、もともとはビッグバンドのスウィングを聴くことが多かった。クラシックを聴くようになったきっかけも、もともとスーパーマンやスターウォーズなんかの映画音楽を小学校低学年のころに聴いた体験が源流にあって、実はジャズもスーパーマンやスターウォーズのテーマを作曲したジョン・ウィリアムズの影響で聴きはじめたのだった。

ジョン・ウィリアムズが手勢のボストン・ポップス(ボストン・シンフォニー)を引き連れて来日公演したことがあって、民放でその様子が放映されたことがあった。その頃、確か高校生の頃だったと思うが、テレビ音声をステレオ受信できて、しかも録音できるというAiwa製の変なヘッドフォン・ステレオを使っていた。その前は三洋製を使っていたので、私が好んだメーカーは市場で滅びるというジンクスはこのころからあった。

話が逸れたが、その来日公演の放送を、なるべく電波状況の良い環境でカセットテープに録音して、しばらく聴いていた時期があった。その目玉はもちろんスターウォーズのテーマだったのだけれど、そのほかにもジャズの演奏などもあって、ベニー・グッドマンの、というよりルイ・プリマの "Sing Sing Sing" が演目に入っていた。私はもはやクラシックとしてジャズを聴くけれども、80年代当時はまだジャズを青春時代に聴いていた世代が生き残っていただろうから、まだスウィングも現役の音楽で、勢いがあった。

当時、この演奏に非常に強い衝撃を受けて、スウィング・ジャズの盤を少しずつ探すようになっていた。ボストン・ポップスの演奏は大体こんな感じで、ジャズにしては上品な感じだった。

Sing, Sing, Sing - YouTube

ただ、その日の演奏では、カデンツァというのか、ドラムスのソロがとても気合の入ったアドリブを入れていて、その部分だけはベニー・グッドマンの有名な録音よりも刺激的な演奏だった。タイトルは "Sing" だが、ヴォーカルが苦手だったので、器楽曲なのも良かった。

懐かしくなってネットで音源をハシゴしていたら、こういうのが見つかった。

Louis Prima - Sing,Sing,Sing (With a Swing) - YouTube

こちらはほぼ当時のままの編曲になっていて、下品すれすれのいい感じの演奏になっている。映像はどこから来ているのか知らないが、映画か何かだろうか。昔は版権が生きている音源というのは非合法のアングラ物しかなかったが、最近ではYouTubeがそのあたりを商業的に解決する手段を作ったらしく、モノによってはチャンネル登録されて公式に配信されるようになり、安心して音楽を共有できるようになった。

で、いろいろな音源を聴いていたら、やたらに音がいいのがいくつかあって驚いた。PCのライブラリに入っている曲より明らかに音がいい。最近しばらくCDの音を直接聞く手段がなくなっていていたのだが、デスクトップに光学ドライブを復活させたので、手持ちのCDを2枚ほどロスレスエンコードしてみたら、非常に音が良かった。音量を上げないと細かいところは聞き取れないが、トライアングルの高音も、ホールの残響も、けっこうよく聞こえた。

確かに耳も悪くなっているが、音楽が平板で退屈になっていた原因の大きなところは、昔にWindows Media Playerの制限で128kbpsのMP3エンコードしたっきりになっていた音楽ファイルだった。外出中に聴くにはこのくらいで十分だが、室内でヘッドフォンを掛けてしっかり聞くには、やはりロスレス音源が必要ということが分かったので、一番よく聴いている盤を20枚ほどエンコードし直してみた。

聴き比べてみると、WMAやAACに直接エンコードしたファイルはよく聞かないと差がわからなかったが、MP3エンコードしたファイルは霧が晴れたように音質が向上した。ロスレスからであれば、いまどきのエンコード方式で多少の高圧縮を掛けても、中ビットレートのMP3ほどには音質の低下はないだろう。随分ともったいないことをしていた。

というわけで喜んでエンコードしていたらほぼ徹夜になってしまった。いかん。ついでにマイノリティー・オーケストラとチャラン・ポ・ランタンもエンコードしたので、ポータブル・プレイヤーに移しておこう。

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by antonin | 2014-11-24 05:11 | Trackback | Comments(2)

もしもピアノが弾けたなら

あまり、ピアノ独奏の曲には親しみがない。けれどもまあ、一人で弾ける楽器としては、オルガンを除けば最高峰だろうし、楽器の普及率でもなかなかのもので、場所によっては自由に弾けるように置かれているようなものもある。個人で音楽表現するには、やはりピアノが一番表現力があるだろう。

今はもうどうでもいいけれども、若いころには本当に自分の気持ちを言葉ではなく音楽で表現できたらいいのに、というようなことを何度も思った。けれども、20を過ぎて楽器を覚えても程度は見えていて、その程度で自分の表現したいものが出し切れるとは思えなかった。無理なこと時間を割くのなら、その分をコンピューターのハードとソフト、ついでに言うと素子の物理あたりの理解に時間を使いたかった。

そして、ピアノが弾けるようになったらこういうのを弾きたい、と妄想して脳内で弾いていたのが、スメタナのチェコ舞曲第3番だった。

piano: Jan Novotný - music: Bedřich Smetana: Czech Dances, Book 1: No.3, Polka in F major - YouTube

ドヴォジャークの土臭いスラヴ舞曲集はわざとやっていた部分もあるのだが、スメタナ先生の国民楽的音楽は、ポルカと言ってもなんだかんだで都会的に洗練されている。プラハあたりの社交場ではそれなりのクラスの人々もこういうのを踊っていたらしい。ピアノを弾く女性はモーツァルトとかショパンとかラフマニノフとかが好きという場合が多いようだが、そういう人達のピアノソロだと、あまり面白い曲に出会ったことがない。

手足で楽器を弾いてアウトプットすることはできないのだが、頭の中ではピアノ曲だったり弦楽四重奏だったり管弦楽だったりが、ぐるぐる巡っている。ときどき、「ファミリーマート入店の主題による交響詩(1812年風)」みたいなのも頭の中に流れたりするが、演奏にしても譜面にしても、アウトプットすることができない。

1812年という曲は、ロシアの旋律に迫る黒い影、という割には明るすぎるラ・マルセイエーズが暴れまわって、そして最後は冬将軍の前にフランス軍は自滅する。そして最後に民のロシア賛歌が鐘を鳴らしながら派手な凱歌となって終わる。一方、序曲ファミリーマートは、花飾りを編む少女の歌声のようなフルート独走で入店の主題が導入される。主題の最初の4音を繰り返しながら徐々に音階を駆け上がり、そこへ中低音楽器が追いついてきて、大きな祝い唄になる。そして、導入主題が穏やかに消えたところに、軍楽っぽい小太鼓のリズムが刻まれる。最初は単なる「タン、、トン」なのだが、徐々に拍を増やし、シンバルのサポートなども入りながら、だんだんに「セブンイレブンのリズム」に成長する。

「ダッダン、ダダダン、 ダッダン、ダダダン、 ダッダン、ダダダン、 ダダダダ、ダン」のリズムが徐々に強さと不協和音を増しながら迫ってくると、ようやく危険を知らせる導入主題が羊飼いのラッパによって変奏される。しかし住人は混乱のうちに甲高い乱れた音を発するのみで、セブンイレブンの行進は止まらない。そこにようやく、本部の主題「あなたとコンビにファミリーマート」が進軍ラッパ風に登場を告げ、セブン太鼓は一時停止する。

一瞬の静寂の後、セブンイレブンとファミマ本部とやや頼りない入店の主題が変奏をぶつけ合う。ほとんどはセブンがファミマを蹂躙する展開だが、なぜか一転、冬将軍に負けた仏軍のようにセブンの主題がどんどん低い短調に落ち沈んでいく。そしてセブンの主題が息を引き取ると、逃げ回っていただけの入店の主題がいきなりキエフの大きな門のような凱歌を上げ始める。最後はチャイコフスキーばりに楽器を巻き込んで調を上げていくが、上がりきったところで弱音ヴァイオリンの高音を引いた後無音になり、冒頭部の入店主題が、少女がゆっくりと歌うようなフルートで再現される。それを2回繰り返し、オクターブを合わせた弦、木管、金管、打楽器が徐々に集まり、主題の最後5音をffffで鳴らしきって、結。

こういうのを通勤中にときどき脳内で鳴らしながら歩いたりしている。
ゴーストライターがいたら譜面に落としてもらいたい。

--

何年か前にこういう流行があった。

【ファミマ入店音】もしもモーツァルトがファミマの入店音を作曲したら - YouTube
【ファミマ入店音】ファミマヴァチカン店に入ったら浄化された - YouTube
【ファミマ入店音】ファミマウイーン店に入ったらオーケストラ‐ニコニコ動画ββ - YouTube

--

8年前に同じネタで書いていた。すっかり忘れてた。
もしもピアノが弾けたなら : 安敦誌

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by antonin | 2014-11-20 02:14 | Trackback | Comments(0)

薬用ミューズ

かの人を我に語れ、ムーサよ。

オデュッセイアーが確かそんな語り始めだったと思う。このムーサは詩をつかさどる女神で、7人姉妹か何かの一人だったと読んだ覚えがある。その姉妹たちはそれぞれ芸術の一分野を担当していて、優れた芸術家たちのインスピレーションはこの女神姉妹の誰かの恩寵によるものだということになっていた。ムーサをフランス語で言うとミューズになるらしく、英語でもこの表現を使う。そしてミューズ的なものがミュージックで、この楽曲の女神だけが現代の日本にまで知られている。ミュージアムなんてのもあるけれども。

今日は仕事を終えると外の風が土のにおいがして、暑くもなく寒くもないアジアの夜という感じがしたので、一駅手前で電車を降りて、暗い夜の川に架かる橋を歩いて渡った。車に轢かれない程度に注意しながら音楽を聴いていた。ほとんどがドヴォルザークかその手前のロマン派後期の人たちの曲なんだけれども、電車の中で時間に追われながら聞くタイプのものではないので、普段はジャズとか映画音楽とか、昔気が向いて買った歌謡曲とか、そのあたりを聴くことが多い。

今日は夜道を歩きながらだったので、初めて買ったCDを取り込んだ音源を聴いていた。フォーマットもAACか何かの高圧縮音源だし、それより深刻なのは自分の耳が悪くなったことで、中高音の残響成分が得も言われぬ臨場感と質感を持っていて大好きだった曲が、普通ののっぺりとした音楽としてしか楽しめなくなっている。これは残念なことだ。レーシックの耳版みたいに蝸牛に植毛して高音感度上げるなんていう手術はないもんだろうか。

で、初めて買ったCDというのはこれ。

グリーグ:ペールギュント

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団/マーキュリー・ミュージックエンタテインメント

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高校生の頃、近所に電気屋ができた。そこに当時最新鋭のDATのデモ機が置いてあった。学校の帰りに店に立ち寄り、店員に迷惑がられながらも、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭のアレが収められたデモテープを再生して聴いてみたことがあって、おお、これがディジタルの音なのか、ということでひどく感動したことを今でもよく覚えている。あれは本気のオーディオセットの品質であり、アンプからヘッドフォンに至るアナログパートもバブル時代のそりゃ贅沢な作りをしていたはずだし、音源は音源でオーディオ屋さんがデモ用に使うものだから、レコーディングやマスタリングなどのプロダクト エンジニアリングもコスト度外視で徹底的にこだわったものだったのだろう。

そんな万博パビリオンのような力の入りようのオーディオにはその後もついぞ縁がなかったのだけれども、それでも日本の民生オーディオは着実にコストダウンを続け、それに我が家の家業もバブル景気の裾野にあってそれなりの恩恵を受けていたので、高校3年生の時にCDプレイヤーとカセットデッキ2台を備えたラジカセを買ってもらえた。一応進学校らしきところに通っていたので、アルバイト禁止ということでそんな生活をしていた。CDの手持ちがないので、近所の蔦屋に行ってレンタルCDを物色すると、こういうのが置いてあった。当時の蔦屋にはまだこんな品揃えもあったのだ。

ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集(全曲)

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団,ノイマン(ヴァーツラフ)/日本コロムビア

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クラシックのCDをリッピングすると、その後に再販された廉価版レーベルに上書きされて、購入した当時のライナー表紙とは違う図柄になっていることが多いのだが、この盤はまだ当時のままの、スラヴの民族衣装の美しい女性の写真から変わっていない。このスラヴ美人にも誘われて手に取った盤なのだが、家で再生したときにはその音質の素晴らしさに涙が出るほど感動した。連日このCDを掛けまくり、返却日前にその一部を両面46分のカセットテープに収めた。このテープはヘッドフォン ステレオに入れて持ち歩き、大学受験に落ちた帰り道などにも聴いていたので、今でもスラヴ舞曲第6番などを聴くと、あの頃の何とも言えない感情が蘇ってくる。

この、プラハ スプラフォンの初期ディジタル録音は「東側」の録音だけあって、西側の名門、ドイツ グラモフォンなどと比べると技術的にかなり劣るところがあり、耳の肥えた今になって聴くとかなり不躾な堅い音になっているのがわかる。けれども、FMラジオのN響アワーだとかサンデー クラシック リクエストだとかを新聞の週間番組表を頼りにエアーチェックした音源ばかり聴いていた当時、CDから直接再生される音質のキレには本当に驚いたものだった。DACは4倍オーバーサンプリングなんていう初歩的なもので、汎用品になった1bit ΣΔ DACを使っている今のスマホにも劣るようなものだったが、それでもカセットテープしか知らなかった当時の高校生には十分な贅沢だった。

このCDは結局後日改めて購入することになるのだけれども、最初に購入したCDはというと、NHK-FMの放送で聞いた翌日に一日中頭の中で無限ループ再生になっていた「アニトラの踊り」を収めた、ペール ギュント組曲のほうだった。一般的なプラケースではなく紙ホルダに入った廉価版だったが、こちらも指揮はヴァーツラフ ノイマンで、オケはゲヴァント ハウス管という「東側」の演奏だった。比較対象を知らないので批評めいたことはできないが、まずまずの内容じゃないかと思う。オケはいいのだけれど、ソプラノが過去に聴いたソルヴェイグに比べると少し好きじゃなかったのが印象に響いている。

そういう、若いころに聴いた音楽は、最近ではあまり聴かなくなってしまっていた。でも、ネットで文字情報ばっかり追い続けて感情が腐っていたところに、久しぶりに当時溺れていた後期ロマン派だとか国民楽派なんかの、音楽の教科書に載っているような曲を聴いてみると、少しだけ気分が落ち着いたような気がした。音楽を聴いたから気分が落ち着いたのか、多少でも気分が落ち着いたから音楽を聴く余裕ができたのか、そのあたりは判然としない。アントニーン・ドヴォルザークの交響曲を1曲しっかり聞くには、相当の心理的な余裕が必要で、時間に追われているときはもっと刺激的な曲の山場をザッピングして終わりになってしまう。

薫香などと並んで、音楽は宗教的な場面で好んで使われるけれども、嗅覚や音感というのはどちらかというと人間の脳の古い部分に直接訴えかける刺激なので、心理を整える助けにするには色々と都合がいいのだろう。落ち着いた音楽を聴いていると気分もいくらか落ち着いてくるような気がする。私はクラシックと言っても騒々しい曲が好きなので、落ち着くというよりは踊り疲れるというほうが感覚的に近いかもしれないけれども。

今では、当時は経済的に手に入らなかったような品質の良いステレオ イヤホンを所有できるようになったのだが、それで音楽を聴いてみると、当時感じた光るような高音の艶が全く感じられない。おそらくは聴覚が衰えて倍音の深いところまでは届かなくなったからだと思うのだけれど、よく聴くと曲によってはいくらかましなのがある。そういえば、初期にリッピングした盤はWindows Media Playerで192kbpsあたりのMP3に落とし、それを新しい高圧縮フォーマットに変換したんだった。最近取り込んだ盤は直接これらのフォーマットにエンコードしたので、同じビットレートでもMP3みたいにスペクトルが可聴域内でシーリングされていたりはしない。

ひょっとするとこのあたりが高音の聞こえない原因なのかもしれない。耳のせいじゃないとするといくらか望みがあるのだが、またいちいちCDから取り込みなおすのもなかなかしんどい作業ではある。Appleがクラウドがなんだかというサービスを始めたようだが、iTunesだと手持ちのCDの大部分が画像なしになってしまうし、曲名や芸術家名もバラバラになってしまって、とてもじゃないが定額料金を払う価値は感じられない。やはり自分でCDからリッピングし、必要ならメタデータをチマチマ編集してやらないと快適には聴けないのだ。まあ、CDのアルミ蒸着面が錆びて消える前に、いずれロスレス エンコードはやっておかないといけない作業なんだろう。

なんというか、音楽は意外に心に効くもんだな、と。

[HD] Edvard Grieg - Peer Gynt Suite, Anitra's Dance | Limburgs Symfonie Orkest, Otto Tausk (3/4) - YouTube

A. Dvorak: Slavonic dances No.5, Skocna, A major - YouTube ← コメントにもあるが、曲が第6番だった

R.Strauss Also sprach Zarathustra op.30 Part 1 - YouTube

ドヴォルザーク 交響曲第7番第3楽章 Dvorak Symphony No. 7 MOV3 - YouTube

Antonín Dvořák Symphony No 8 [No 4] G major Karajan Wiener Philarmoniker - YouTube

P. I. Tchaikovsky - Symphony No. 4 in F minor, Op. 36 (Sanderling) - YouTube


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by antonin | 2014-06-14 14:38 | Trackback | Comments(0)

アメリカ組曲ほか

音楽の話を書いたが、昔話が混ざったりして話が煩雑になってしまったので、今日久しぶりにCDから取り込んで聴いた曲だけ記録することに。

Amazon.co.jp: American Suite, B.190, Op.98b: II. Allegro: Royal Liverpool Philharmonic Orchestra: 音楽ダウンロード

YouTubuなんかで探しても出てくるが、リンクしたために削除されたりすると悲しいので、ここには出さないことにする。

音楽を聴くから気分が落ち着くのか、気分が落ち着いてきたからじっくりと音楽が聴けるのか、どちらでも妥当なような気がしてわからない。まあどちらでもいいか。

--

Brainfuckなんかもコツコツ進めている。非常に早い処理系を見つけたのだが、そこで使っているC++用のJITライブラリなんかも見ていて面白い。RPythonでBrainfuckというのもあった。

hogelog/fast-bf · GitHub

XBYAK

PyPy を使ってインタプリタを書く

BF用バックエンド・ライブラリの実装はちょっと後回しにして、有名なmandelbrot.bの生成用マクロコードを解読していたりしている。複素数演算はバイトを1ビット扱いしてキャリー計算することで実装しているらしい。面白い。

なんというか、平和です。
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by antonin | 2013-09-06 02:24 | Trackback | Comments(0)

音楽

考えない練習もぼちぼちと進んでいて、というよりは処方が安定している方が影響は強いと思うのだけれど、ともかく、余計なことを考えすぎる頻度は下がっている。本は、読んでいるけれどもペースは遅い。ただ、それだといくらか退屈する。孤独も死もさほど嫌ではないが、退屈は嫌だ。耐えられない。というわけで、ネットで検索とかは日常的に繰り返している。

そうしたら、変なところで自分の書いたページがヒットしたりする。そりゃまあ確かに、自分の興味関心と一番マッチするのは自分の書いたものだよなぁ、と、そんなことを思った。最近はWeb上のターゲット広告が阿呆なのでちょっとゲンナリすることも多いが、そうは言ってもそういう広告のお陰でネットは事実上の無料アクセスを実現しているのだと思うと、文句ばかりも言えない。

さて、そういうわけで、「音楽」タグなんかをひっくり返して、非公開記事に貼ってあるYouTubeの動画などを再生している。動画と言っても、画面は真っ黒で音楽が流れてくるだけなのだけれど。まだどこかのレコード会社が版権を持っているような録音なので、一人でこっそり聴いている。しかしまあ、CDでも持ってたよな、これ、ということで、CDケースから久しぶりにCDを引っ張り出してきてiTunesに食わせてみた。

本当は、40分くらいかけてゆっくりと交響曲なんかを聴く余裕が生活のどこかにあるといいのだろうけれど、なかなかそういう具合にいかない。公私共にいろいろな付き合いがあるし、最近は外出先でもネットに繋がったりして、刺激が多い。19世紀の音楽に耳を傾けるような余裕が取れる瞬間というのは、そんなに多くは巡ってこない。

でも、やっぱり、若い頃に聴いた音楽をゆっくり聞いてみるってのは落ち着くな。学生時代に一人音楽を聞きながら読書していた頃の気分を思い出す。

「考える生き方」にも書いてあったが、私が最初に通った大学にもキャレルを備えた図書館があり、いつもそこに入り浸っていた。元々都心に校舎があったのだが、バブルの影響で郊外に移転させられた。その時に建てられた真新しい図書館で、バブル期特有のコンクリート打ちっぱなしの外壁に、コンクリートに直接彫り込まれた文字で "VERITAS VOS LIBERABIT" と書かれていた。当時はなんのことやらわからなかったが、後になって調べてみると、ラテン語で「真理が諸君を自由にする」というような意味らしい。

クローズドタイプのヘッドフォンで音量を控えめにして音楽を聴いていても、それが5時間にもなるとやはり耳が痛くなってくる。日が傾く頃になってヘッドフォンを外すと、外からヒグラシの声が聞こえてくる。だいたいそんな夏の過ごし方をしていた。バイトなどもしていたが、熱心というには程遠く、1年次のバイト代はPCの購入で全て消え、2年次のバイト代は運転免許の取得で全て消えた。

PCを買おうとしてバイトしていた1年次に、当時はまだ都心にあった校舎に併設の図書館からC言語の教科書を借りてきて、ノートにコーディングしてプログラミングの練習をしていた。当時はコンパイラも安くなかったし、いろいろと苦労はあったが、それでも若さというのか、とにかく楽しかった。まだ技法というほどのものは身に付いていなかったが、構造化プログラミングくらいなら実験データ処理用のポケットコンピューターのBASICプログラムでも実践できたので、Newton-Raphson法とかRunge-Kutta法とかの数値解法プログラムを組むのにもいくらか役に立った。ゲームも少しだけ作ったが、機械語は当時はまだ知らなかった。

んー、昔話がしたかったわけではないのだけれど。音楽は、脳の中でもより身体的な部分に効いてくるので、もっと積極的に聴いたほうがいいんだろうな、なんてことを、久しぶりに思った。ちなみに今聞いているのはこれ。

Amazon.co.jp: American Suite, B.190, Op.98b: II. Allegro: Royal Liverpool Philharmonic Orchestra: 音楽ダウンロード

USに比べると倍ぐらいするんだなぁ。

American Suite, B.190, Op.98b: II. Allegro

うちのは過去のCDを寄せ集めた交響曲全集的な6枚組のやつですが、録音は同じはずです。

ドヴォルザークは大器晩成型で、名曲は50代に集中しているんだけれど、彼の晩年はもう20世紀に頭を突っ込んでいて、国民楽派とか後期ロマン派というのは時代的にもう飽きられていた。なので、新世界とかチェロ協奏曲みたいな大作を別とすると、案外いい曲が知られないままに眠っていたりする。一部の曲はクライスラーが小編成に編曲してくれたおかげで有名になり、現代でも演奏される機会が多いけれども、それ以外の無名の曲でも有名な曲とそれほど質的に変わるものではなく、ドヴォルザーク好きにはたまらない名作が多い。

そういうのを探してみると楽しいのだけれど、時代はいよいよビート系ポップス全盛で、クラシックは電子メディアにもあまり真剣に相手にされなくなりつつある。ビート系って、子音の多いゲルマン系の言語には実によく合う音楽なのだけれど、ラテン語とかギリシア語とか日本語とか、母音の多い海洋系の言語にはちょっと合わない。日本で音楽が売れなくなっている一因に、楽曲のゲルマン化が進みすぎているというのもあるんじゃないだろうか。「んあ~~」とか「ぅお~~」とか鼻歌歌える曲って減っている気がする。クラシックもメロディアスな系統は基本がイタリア音楽なので、日本人にも歌いやすいものが多い。
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by antonin | 2013-09-06 02:09 | Trackback | Comments(0)

自分のドタマで考えよう

ちきりん著「自分のアタマで考えよう」を先週Amazon kindle storeで購入、翌日一気に読了。購入前に一番興味があると言っていた、両親への感謝の言葉は書かれていなかった。別の本と勘違いしていたみたい。

自分のアタマで考えよう

ちきりん / ダイヤモンド社


内容を字義通りに解釈すると、未読の人にはこう言わなければならない。

「この本に書かれている内容を信じてしまうような人は、この本を読んではいけない」

論旨の構成はこういう具合で、論理的にはいろいろとグダグダした部分が多く、錯綜していたり矛盾していたりする。こういう部分が、「ちきりんって自分と同じ匂いがする」と感じさせる理由なのだろう。これが理屈にうるさい人にかかると、たぶん無教養の極みという感じで違和感を持たれてしまう。

で、ちきりんには彼女なりの成功体験というものがあって、自分のアタマで考えることを他人に勧めるわけなのだけれど、個人的には自分のアタマで考えるというのは宿命みたいに感じている部分があって、人に勧められてどうこうというものではないような気がしている。こういう本に勧められてようやく自分のアタマで考え始められる人がいるものなのかどうなのか、ちょっと疑わしい。

この本に書かれていることを一言で言うと、「考えるためのツール」がサラッと説明されたハウツー本ということになる。考えろと言われてもどうやったら考えられるのかわからないという人がいて、そういう人に対して「こうすれば考えられるよ」ということが説明されている。それでいて、最後の章になって、名著を読んで答えを知るのはやめよう、先に自分のアタマで考えよう、みたいなことが書かれている。この本は名著だろうし、考え方の答えが書かれているのだし、じゃあこの本を信じてしまうような人はこの本を読んだらダメじゃん、というのが第一印象だった。

私にも、自分の頭で精一杯考えたことが、古典にあっさりと、そして数段エレガントに書かれていたのを見つけてはガッカリしていた時期があった。で、答え合わせをするときには自分の答えを持っている方が楽しい、というようなことは書いたことがある。

考える葦 : 安敦誌

ただこれ、若干負け惜しみみたいなところがあって、古典をサクッと読んでスッと理解できる情報網と頭脳があるなら、そのほうが手っ取り早いとは思う。しかし実際のところ、古典というのはあまりにも膨大な量があって、どれを読んだらいいのかがまず分からないし、苦労して読んだだけの知識が得られるかどうかもわからない。「この本に答えが書かれているらしい」という情報にたどり着くのがまず難しく、それにはある程度問題を自分のものとして捉えている必要がある。

しかも、コロンブスの卵の話のように、思いつくのは大変だが、知ってしまえば馬鹿でも理解できるような答えもあれば、オセロゲームのように、ルールや勝ち方の理論を知るのは一瞬だけれども、それを本当に理解したり、試合の中で実践するまでには、嫌になるほど多くの時間を必要とするようなものもある。

買ってくる花には、切花のように根がなく、枯れて消えてしまうか、押し花にして永遠に変わらないようにしなければ蓄えられないものがある。また、鉢植えのように、根を張って水を吸い、陽を浴びて次々に花を咲かせ続けるものがある。そして、更に実を生じて株を増やしたり、食事に色を添えたりするものもある。

知識も花に似ている。ただ言葉として知っているだけの知識は、切花に似ている。「管理する」は英語で"manage"または"control"とか言うというのを知っていれば、簡単な試験問題には答えられる。"manage"と"control"という単語を、英語話者はどういう場面で使っていて、どう使い分けているのかまで理解できていると、「管理しろ」と言われた時に、manageすればいいのかcontrolすればいいのかという考え方ができるようになる。これは鉢植えに似ていて、単なる言葉の組み合わせとしての知識が、他の経験や知識と結びついて、単語の意味を訳す以外のいろいろな場面で力を発揮し始める。

そして、実際に"control"ではなく"manege"をしなくてはいけないという時に、実際にそれを遂行するには種々雑多な知識の援用が必要になる。こうなるともう、「管理する」が"manage"と訳されるなんていうのはどうでもいいくらいの要素になっていて、膨大な知識がその知識の断片と有機的に結びついている必要がある。

知識には、「知っている」と「わかっている」と「使える」の3段階があって、知ったからといってわかっているわけではなく、わかったからといって使えるわけでもない。知っている状態からわかっている状態へ持って行くには考えるというプロセスが必要で、だから論語にも「学びて思わざるは即ち罔(くら)し」とある。でも、種もないのに水をまいても花が咲かないように、「思いて学ばざるは即ち殆(あやう)し」ともあって、極端な我流も良くないと言っている。

名著と呼ばれてしまうような作品に書かれているのは、コロンブスの卵的に効果覿面という類いのものが書かれている割合というのがとても低くて、大抵は一読したところでは意味がわからず、そこから著者との勝負が始まる。ただし、予め自分の答えを持っていると、一読目で勝負がつくこともある。(この場合、大抵は読者が負ける。良くて引き分け。だから名著と言われる)

「わかっている」を「使える」に昇格させるには、とにかく実践経験しかない。実際に失敗してああでもないこうでもないと、無数の細かい経験を積むしかない。逆に、実践で使えない経験がより確かな理解を要請するし、理解できない経験がより豊富な知識を要請するものだと思う。

「自分のアタマで考えよう」の冒頭では、ちきりんがアメリカで学んできた哲学がストレートに書かれている。つまり、「人はなぜ学び、考えるのか」という問に対して、「判断し実行するためだ」という答えを、あまり疑わずに信じているような書き方がされている。このあたり、私が大学に入った年に英語の授業で読まされた、ウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」の完成形が、今もアメリカでは連綿と生きているのだな、という感じがする。

アメリカというのはプロテスタントの国だし、ローマを範とした軍事の国でもあるので、議論のための議論を嫌い、功利主義的な議論を好む傾向はあるらしい。このあたり、ヨーロッパ人のねちっこい議論に比べるとかなりスッキリしていて小気味いいのだけれど、そのスピード感から離れて、ちょっと落ち着いて考えてみると、なんだかおかしな所も多い。

私も大学生の頃に誤差伝搬の計算方法と有効数字の取り扱いだとか、データに騙されないグラフの描き方だとか、まずはそういうものから教えられた。理工系のグラフの描き方というのは、とにかく定量的で、量的なものを長さや面積などで正しくアナログ表現し、それにより視覚を通じて直感的にデータを認識したり比較したりするのが目的だった。なので、実験で取得したデータを数表などで提出すると手抜きだと怒られ、今度は棒グラフにすると原点が0ではないので面積と数値が比例関係にないと怒られた。大量の数値は必ず図にして把握しろと、口を酸っぱくして教えられた。

社会に出ても、統計的品質管理手法の講習を受け、QC7つ道具の使い方などを習った。実務と並行していたのでなかなかキツかったが、データがいかに人を騙すかというのがわかって面白かった。そういうデータに騙されない方法というのが、データを見て納得している自分に対して、「本当にそうか?」という強制的な疑問を義務的に向ける作業で、これがなかなか難しいものだった。で、まあ、やってみると気付かなかった疑問点がザラザラと出てくる。グループ討議などでやってみると、さらにいろいろと見つかる。

そういうツールを使うと確かに色々なものが見えてくるし、問題を考えることそのものより問題解決を優先するなら、恐ろしい勢いで問題を片付けることもできるので、確かに楽しい。ただ、それは本当に「考える」ということなんだろうか。

かなり前に読んだ「算法少女」という本が、まだ左列のライフログに棚晒しになったままになっているが、そこでは、江戸時代に実在した、少女の名による算法書をめぐるストーリーにからめて、「学ぶとは何か」ということが隠れたテーマになっている。復刊を果たした文庫の帯には「楽しいからよ」と高らかに書かれているし、確かに主人公の少女もそういうセリフを言うのだけれど、完全に算法を趣味として楽しみ、「壺中の天」にとどまる主人公の父を見て、あるいは九九を教わって喜んでいる町人の子供たちを見て、楽しいだけが学問の価値でもない、ということも語られる。

自分のアタマで考えるのも、基本は楽しいからであって、それがなくてはいけないが、それだけでもいけなくて、必ずいつかどこかで役立つものでなければいけない。一方で、功利的になりすぎて、判断をもたらさない思考は結局何も考えていないのと同じ、というのも極端が過ぎる。アメリカというのは伝統的にこちらの極端に近いところにいて、ヨーロッパのねちっこさに比べると、非常にはっきりとしている。

聖徳太子を降ろして福沢諭吉を掲げるようになってからの日本の嫌味なところはこういう部分なのだけれど、福沢諭吉が、イギリスにいいようにやられた清を見て、ああいう形で学問を薦めたのと同じように、平成の日本が、ドルにいいようにやられた円を見てこういう形になったのも、似たような恐怖に駆られた結果であって、まあ仕方がないのかな、とも思う。

関係ない話になってしまった。まあ、道具なんていうのは、仕組みを考えるより買ってくるほうが早い。要は、考えて何かを理解することそのものに情熱を感じるのか、理解したことによって小気味良く現実の問題をバッタバッタと解決していく方に情熱を感じて、手段として考えることを利用するのか。そのあたりの動機の問題だろうと思う。

ある人の動機(motif)というのは、幼年期の終わりに初めて自分の手で何かを成し遂げた喜びとか、あるいはウィリー・ウォンカのように子供の自然な欲求を不自然に抑圧されたための渇望とか、そういう偶然の結果がズルズルと尾を引いているだけで、大人になって他人の書いた文字を眺めたからって、そうそう変わるものではないのだろうという気がする。

変わる要因がただ一つあるとしたら、それは青春期に固有の「惚れる」という体験だろう。それは異性でも同性でも良いのだけれど、同性だからといって薔薇とか百合とかになるタイプのものではなくて、「この人ってすごい」という無批判な惚れ込みようってのは、ハタチ前後にはよくある話だろうし、ある程度歳を取るとほとんど失われてしまう能力でもある。

そういう、心底惚れられる人か、自分がうちに秘めた動機と合致する仕事か、20代の貴重な時間にそのどちらかがない職場にいるなら、躊躇はあるだろうけど思い切って辞めてしまえ、という話を「若さの無駄遣いはやめよう」というタイトルで書こうとしていたのを思い出して、脱線してしまった。

ちきりんは、幸福な20代を送ることができたのだろう。善き哉。もうちょっと、その惚れたあたりの話を読んでみたかった。この本も、若い人を惚れさせようと口説いている内容なのであって、私が読んでもしかたがないのだろう。

ツールなんかは、必要な人が必要に応じて使えばいい。分解して仕組みが知りたい人もそうすればいい。薬を飲みながら11年を過ごし、若さを無駄遣いして終わってしまったおっさんは、歌を歌おう。ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん。

マーラー 交響曲第5番より 第1楽章 - YouTube
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by antonin | 2013-03-11 01:34 | Trackback | Comments(0)

月の光

アメリカのamzon.comでは既にDRMフリーMP3のダウンロード販売がおこなわれているが、日本からのアクセスでは販売が許可されないという処置がされていた。これに対してハワイで銀行カードを作って頑張ってアメリカ国内決済してダウンロードしたりという裏技などがあったようだけれども、ようやく日本のAmazon.co.jpでも同様のダウンロード販売が始まった。

Amazon:co.jp: MP3 ダウンロード - DRMフリーの音楽配信サービス 無料音楽配信も

試聴してみると圧縮音源特有のキュラキュラというひずみがひどかったのだけれど、無料の楽曲データもいくつかあったので試しにダウンロードして聞いてみた。

Amazon.co.jp: 無料ダウンロード&スペシャル・プライス: MP3ダウンロード

すると、ちゃんと256Kbpsの高品質なMP3データで問題がなかった。128Kbpsくらいのデータ量だとMP3のような初歩的な音声圧縮方式では若干のひずみが残っていて、静かな環境でまともなヘッドホンを使って再生すると例のキュラキュラ雑音に気付くのだが、256KbpsにもなるとリニアPCMとの差に気付いたという経験はない。そんなに幅広く聴いてみた経験があるわけではないけど。

iTunes Storeの開設時にも話題になったような楽曲を大量に詰め合わせた商品が売られていたので、その中から手持ちの曲とダブりの少ないドビュッシーの作品パックを購入してみた。

Amazon.co.jp: The 99 Most Essential Debussy Masterpieces (Amazon Exclusive): Various Artists: MP3ダウンロード

現在の価格は¥900だが、本家amazon.comのほうを覗いてみると$6.99となっているので、為替レートを勘案すると日本の方がアメリカに対し1.5倍程度の価格設定になっている。国内では市場も小さいことに加えて複雑な権利関係の処理をしないといけないので、国内利権と関係の無い楽曲といえどもこのくらいのコストアップはしかたがないのだろう。MP3なら、システム間という意味でも過去から将来への時間軸という意味でもポータビリティが高いので、DRMフリーと併せて購入後のリスクが軽減できていい。

ということで、ダウンロードした99曲の中から有名なベルガマスク組曲の「月の光」を再生している。「月の光」を原語のフランス語で書くと、"Clair de Lune"(クレール・ド・リューン)となるらしい。ベートーヴェンにも「月光」という有名な曲があるが、こちらもドイツ語で書くと"Mondschein"(モーントシャイン)となる。ドヴォルザークのオペラ「ルサルカ」の題名にもなっている主人公は水の妖精で、話の筋はまぁ「人魚姫」と同じなのだけれども、やはり月光の下で切ない恋心をアリアにして歌う。スメタナの「モルダウ(ヴルタヴァ)」でも同じような水の精霊が月の光の下で踊る情景が描かれた部分がある。

YouTube - Debussy : Clair de lune

YouTube - Moonlight Sonata

YouTube - Renée Fleming - Song to the Moon with Lyrics

YouTube - Michael Holmes conducts Smetana Moldau (Vltava) [Moonlight]

今でこそ人工の光源があふれていて月光のありがたみもないけれど、ロウソクかランプの明かりがせいぜいだった時代には、夜でありながら最低限の視界が確保できる月光の価値というのは今の比にはならないほどだったのだろう。日本だと、花鳥風月という具合で月そのものを愛でる傾向があるけれども、西洋だと月明かりが主題で、どちらかというと月明かりの中で繰り広げられる男女の情景の方に視線が行っているというのは、いかにもという感じがする。まぁ日本だって情をとげられなかった女の情念が満月の下で草木や獣に姿を変えたり、またその逆に悉有仏性ということで草花が女の姿になったりと、それなりの話は多く残っているのだろうけれども。

月光に当たる英語とフランス語とドイツ語は出てきたが、他の言語ではどうなるのか。さがすとこういうページが見つかった。

BABEL ~世界の言葉~ | 月光(げっこう)

ただこれ、カナ表記にしても表記順にしても、学研の「ネーミング辞典」という本からの引き写しですよね。できれば引用元を添えるくらいの配慮はあってもいいのではないかと。(追記:アイコンリンクで該当書籍へ誘導されていました。ご指摘ありがとうございます。)

ヒット商品をつくるネーミング辞典

学習研究社


折角だから本書にあるギリシャ語(希)とロシア語(露)のスペルも書いておきましょうか。

希 ランプラ・セレーネー λαμπρα σεληνη
露 ルーンヌイ・スヴィエート лунньй свет

格変化とかそのあたりは無視して単語熟語だけ切り出してあるので、あくまでご参考まで、というようなものだとは思いますが、ラテン系、ゲルマン系、スラヴ系の類似や相違がわかって、ミーハーなネーミングに使う以外でも面白い本です。13ヶ国語版というのも出ているみたい。

13か国語でわかる新・ネーミング辞典

学習研究社


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by antonin | 2010-11-10 11:33 | Trackback | Comments(2)

懐かしのダンス・ミュージック

リア厨、つまり本当の中二の頃に聞いていた音楽がYouTubeで拾えたので、リンクだけここに残しておくことに。ジョージ・セル指揮、クリーブランド管弦楽団の演奏とあるので、おそらくは1970年前後のCBSの録音だろうし、今ならSonyあたりが版権を持っているんだろう。オブジェクト埋め込みとかしてしまうと削除されてしまう可能性も高まるので、ひっそりと。

YouTube - スラヴ舞曲 第10番 ホ短調 ドヴォルザーク.wmv

こういう艶っぽい弦楽合奏の音色は最近ではめっきり聞かなくなりましたね。おそらくこれと同じ音源によるカセットテープを、父親がカーステレオ用にマイケル・ジャクソンのスリラーのテープと一緒に買ってきて、それをダビングさせてもらってヘッドフォンステレオで繰り返し聴いていた記憶が。

この管弦楽版もドヴォルザーク本人による編曲だけれど、元はピアノ連弾用の編曲で、こちらは今ではあまり演奏機会も多くないものの、作品が書かれた当時は多くの楽譜が売れるピアノ版のほうが出版社の収益源になっていたという話もあるらしい。これも良いものがYouTubeで拾えたので、リンクだけ。

YouTube - Duo Lechner Tiempo : "Slavonic Dance, Op. 72, No. 2 in E minor" by Antonin Dvořák

しかしまぁなんですね、他の人のblogとかを読ませてもらっても時々音楽ネタが出てくるんですが、音楽だけは趣味が合わないとどうしようもないですね。コドモたちの中でも私に似て寝付きの悪いムスコ1号だけが、ヘッドフォンで音楽を聞いていたりすると興味を示して時々聴かせるよう言ったりしますが、1分以内に眠れるムスメなんかは全く興味がないようです。
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by antonin | 2010-08-21 01:00 | Trackback | Comments(0)


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