by antonin
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ちょっかい出したあたりの始末を。 -- 皆殺しの天使 : Le Rappel à l'Ordre 内容は、ランダムネスについて。というか、乱雑さは最初から宇宙に存在していなければならないんじゃないか、という話だった。 なるほど、そうだったか。けれどもなんというか、10/3は3.33333...で単純だが、10/7は1.42857142857...となって、いくらか乱雑な感じがする。かといって、10/7が10/3に比べて乱雑さが大きいかというと、どうなんだろう、という気がする。1だけが並んだ十進数を掛け合わせると、 1x1=1 11x11=121 111x111=12321 1111x1111=1234321 11111x11111=123454321 111111x111111=12345654321 1111111x1111111=1234567654321 11111111x11111111=123456787654321 111111111x111111111=12345678987654321 と、非常に規則的に並ぶわけだが、この先は規則性がゆるやかに崩れ始める 1111111111x1111111111=1234567900987654321 11111111111x11111111111=123456790120987654321 111111111111x111111111111=1234567901234320987654321 こういう場合に、「乱雑さの元」というのは、一体どの部分を指してそれとしたらいいのだろうか、という疑問があった。乱雑さの由来はデータと演算規則にあるわけだけれども、どちらかというと演算規則そのものが持つ性質のほうが重要なのではないか、という気がしている。r-ペントミノよりは、23/3ルールのほうに複雑さの本質があるような気がしている。もっともこの場合、余りに不毛な初期配置というものはありうるのだけれども(全面ゼロとか)。 もうひとつは、完全情報がある場合の数理と、完全情報を持たない場合の数理の違い。どんなに精密な物理法則から、どんなに複雑な現象を因果律の成立する決定系としてシミュレートしたところで、現実の系というのはその完全情報を取得することができない。けれども、シミュレートした現象に現れるある種の性質が、現実の系の性質に「似ている」ということはあるだろう。 ここで、「似ている」とはなんぞや、という問題にぶつかる。・・・ような気がする。チェイティンの定理というのを紹介してもらって興味深かったが、他にも「醜いアヒルの子定理」というのがある。 醜いアヒルの子の定理 - 情報論的学習理論と機械学習の「朱鷺の杜Wiki」 「似ている」というのは、人間の恣意的な決定による前提条件に依存していて、ある二つの事柄の比較そのものから「似ている」という性質を引き出すことはできないというもので、これもあるいはゲーデルの不完全性定理あたりと同形の定理なのだろう。スティーヴン・ジェイ・グールドの主張に、多様性と異質性という議論があって、これに対してリチャード・ドーキンス一派からは異質性には客観的な意味がないという反駁があったという。これも似たような話なのだろう。でもまぁ、恣意的に決定しちまえばいいんですがね。人間なんだから。 そんな複雑な非線形系が、それでも人体のように上手く機能するためには、ある程度の階層化も必要だと思う。核力が天体の動きに影響するという話は、太陽の核融合なんかを別にすれば、無視したほうがいい。同様に、塩基配列と哺乳類の形質をいきなり比較するのはやめたほうがいい。けれども、溶液組成とDNAのモルフォロジには強い相関がある。DNAモルフォロジとRNAの生成には強い相関がある。RNAの塩基配列とアミノ酸の配列には強い相関がある。アミノ酸の配列とタンパク質の立体構造には強い相関がある。タンパク質の立体構造やその濃度と細胞膜の機能には強い相関がある。細胞膜の機能と細胞組織の機能には強い相関がある。細胞組織の機能と臓器の機能には強い相関がある。臓器の機能と哺乳類の形質には強い相関がある。 けれども、それぞれの階層を越えて有意差を与えない、階層内に閉じた情報がある。一方で外界から入ってきて有意な影響を与えるコントロール不能な情報があり、それは主要因と混交しないよう統計的に実験水準を組まなくてはならない。ある水準内の挙動や、水準間インターフェイスの解析という世界では、還元的な手法でかなり良好な成果を挙げられるだろうし、化学が物理学に飲み込まれて消えたりしなかったのと同様に、生物学という分野は今後も残っていくだろう。たとえ、日本の大学では腐っているとしても。 -- その、生物系大学院が腐っているという話。これはtwo-face氏渾身の、後進への警告ですよね、「皆殺しの天使」そのものが。「受験生たちは刮目せよ!!」って話。だのに、こんな中年に絡まれて気の毒な話だ。個人的に余りに興味深い話が多いので、知識の浅いことを忘れて、つい手が出てしまう。読むとちょっかい出したくなるので、最近はなるべく読まないようにはしているのだけれども、自制心の甘さから、つい。 で、それはそれとして現実なのだと思うが、大学など当の昔に離れた身からすると、むしろ物理系学科のほうが少数派なのではないか、という気がしている。日本の大学は源流の枯れた湖のようになっていて、最後に残った水溜りが物理専攻とその周辺なのではないかというようにも見える。というのも、文系学科はすでにかなり以前から腐敗が進んでいた。 万学の礎である哲学にしても、日本国内では「哲学学」になって久しい。いわゆる、哲学史。既存の哲学を教えることについては優れているが、自分の哲学を編み出す人というのは、国内では余り見かけない。既存の法令と判例を教えることについては優れているが、なぜ人間は法を必要とするのかを考えている人は、国内では余り見かけない。既存の経済学史を教えることについては優れているが、金融のルール変更を織り込んだ経済学を編み出せる人を余り見かけない。既存の文学史を教えることについては優れているが、未来を拓くような文学を記す人を余り見かけない。 ピペドという言葉を使われるが、こういうものは典型的な「奴隷のための技能」であって、確かに大学院に進む精鋭が学ぶべきものではない。彼らが本来学ぶべきものとして、ギリシャやローマの市民権を持った「自由民のための技能」である、リベラル・アーツというものがある。まず文系三学として、読み聞くための文法、書き語るための修辞法、そして思索するための論理学がある。次に数理系四学として、幾何学、算術、音楽、天文学がある。 音楽だけ少し異質だが、ピタゴラス音律から始まって、純正律、平均律などの音律法、それに作曲技法としての和声法や対位法などを学べば、人間の美意識すら算術幾何と無縁ではないというピタゴラス教団(とカトリック教会)の世界観が学べる。フーリエ変換に始まりシュレディンガー方程式に至る波動の物理も、音楽と必ずしも無縁ではない。天文学は天界の記述であり、自然の哲学であり、現代の物理学の直系の祖先になるだろう。こういう基礎的な素養は、帝国大学や師範大学クラスの大学であれば、大学院に入る前に十分に身に付けておくべきだろうと思う。であれば、特定学科の学問的矮小さなどすぐに見抜けるだろう。 こうした教養を修めた上で専門的研究を行えば、世界的な研究の趨勢の中で、本質的価値に対する研究リソースの過剰や欠乏が見えてくるだろう。広い分野から知恵を借りて欠乏を埋めれば、ビジョンとして世間の5年や10年先を行くことも決して難しくないだろう。それが簡単に評価されるかどうかは別として。研究費の確保は高度に政治的な問題であって、学問とはまた違う問題が立ちはだかる。 日本の大学において「(大学や企業や役所の)奴隷のための技能」ばかりがもてはやされ、「自由民のための技能」が重視されないことこそが諸悪の根源であって、C大の生物は、たまたまそれが閉鎖環境にあって濃厚に堆積しただけに過ぎないようにも見える。理系、文系という言葉が当たり前のように語られるが、それは理系であれば歴史哲学に詳しくなくても許されるとか、文系であれば数学科学に詳しくなくても許されるとか、そういう「住み分け」が悪い方向に現れたのが現在の日本であるように思っている。 もちろん、人間のアタマの容量は有限なので、エキスパートレベルのスペシャリストというのは貴重な人材である。しかし、エキスパートではないが、より周辺知識に詳しいスペシャリストであるとか、特定分野についてのスペシャリティはないが、広範な分野についての浅い知識を有機的に横断できるジェネラリストなどが、バランスよく適材適所で大学なり企業なり政府なりというシステムを運営すべきだろうと思う。一方で現実はどうもそうはなっておらず、餅は餅屋、で全てが動いているように見える。ジェネラリストというのもまた、理解の深さではなく広さに関するスペシャリストであり、そうした水平方向のエキスパートにもやはり重要な価値があるはずではないかと思っているのだが。 という具合なので、生物から飛び出して物理に移籍するなんていうのは国際的に見れば別段珍しいことでもなんでもなく、two-face氏くらいの逸材であれば日本で燻っていないで、極力早く合衆国のどこかでしかるべきポジションを探すべきだろうと思う。南部陽一郎氏のように、国籍上では日本人であることを捨てる羽目になるかもしれないが、それはそれで日本にとっては名誉なことである。 また脱線しそうなので、このあたりで結。 -- 本件にレスは要りません。誠実な人にはちゃんとこのあたりを断っておかないと、貴重な青春の時間を中年男の駄弁相手に浪費してしまって良くない。それより本業に邁進してください。
by antonin
| 2008-12-23 01:36
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Tracked
from クラシック音楽ぶった斬り
at 2009-01-06 04:26
タイトル : グールドのベートーヴェン:ピアノ協奏曲全集
「作曲家の意図」からも固定イメージからも離れ、響いた音そのものに即して耳を働かせていくと、作品から徹底して響きの抒情を聴き取り"うた"の瞬間を掬い取ったこの演奏は、とてつもなく面白い。... more
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