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クラークの三法則 - Wikipedia 1. 高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。 3つとも味わい深い法則だけれども、今回は第三法則を取り上げる。 この「法則」は私も若い頃に独自に発見したことで、文章に書いたこともある。私がCDプレイヤーの再生ボタンを押したとき、世界屈指のエンジニア数千人が知力を尽くした技術が次々に呼び出されて、結果として私は音楽を聞くことができる。そのこと自体に私はまったく疑問を覚えないのだが、そこで駆使されている詳細な技術について、私はほとんど何も理解していない。つまり、CDプレイヤーの再生ボタンを押してあのキラキラした円盤から音楽を引き出すという行為は、もうある種の魔術なのだろうな、という実感を持った。すると、そういうことはすでに先人によって気の利いた箴言として発表されていたのだった。 この、利用できることと理解できることの間にある、あまりにも深い溝は、科学技術に限らず、専門分野が高度に発達した現代文明では、ありとあらゆる分野に存在している。科学技術の粋を集めたガジェットは言うに及ばず、飲食店で食事するということひとつだけでも、多くの専門家が持っている理解不能なほど多様な知識と経験に依存している。しかも、上流から下流まで全部を俯瞰できる専門家がおらず、そういう専門知識の全容は「現代社会という装置」だけが理解している、などというグロテスクな場合さえある。 それはともかく、高度な技術が機能パッケージとしてまとめられ、それを組み合わせることでまた新しい機能パッケージができる。有形無形のものを含めて、現代社会にはそうした機能パッケージが溢れている。そういうパッケージを作るエンジニアなどのプロフェッショナルは、当然に「魔術師」なのだろう。一方で、プロフェッショナルが思いもよらないような使い方をするユーザーもまた、別の意味で「魔術師」なのだろう。 PCの画面上には多くのアイコンが並んでいて、そこにカーソルを合わせてクリックすると、高度なソフトウェアが起動したり、データファイルにアクセスできたりする。しかし、画面に表示されているのはあくまで「絵」でしかない。エンジニアがソフトウェアを作成し、その絵にプログラムの起動プロセスなどを関連付けているに過ぎない。このアイコンという「絵」の存在によって、一般ユーザーは高度な技術を簡単に利用できるようになる。 さて、ここまでが前置き。本題は、宗教論になる。クラークの第三法則を少し書き換えてみる。 充分に発達した宗教は、迷信と区別がつかない。 こんにち日本では、「宗教」というと古臭く、胡散臭く、財産の危険を感じる言葉として捉えられている。宗教は馬鹿が信じるもの、とさえ思われている節があるし、私もかつてはそう思っていた。 だが、自分自身が生きるか死ぬかという状況にまで追い込まれ、最後の手段として仏教に接してみると、全く考えが変わってしまった。結論から言うと、「仏像」とはアイコンであり、「真言」とはコマンドである。そしてそうしたアイコンやコマンドによって呼び出されるものは何かというと、「ある精神状態」ということになる。 アイコンの絵やコマンドのシンプルさに比べて、そこから呼び出されるソフトウェアというのは一般的に複雑なもので、開発にも多くの費用と時間が必要とされる。そしてアイコンやコマンドは単にソフトウェアの起動条件を指定するだけのもので、メモリ上に呼び出されてプロセッサで実行されるプログラムのほうが真の実体ということになる。 同じように、「仏像」や「真言」は「ある精神状態」を呼び出すための入り口に過ぎず、その「ある精神状態」を実現するためには、整えられた環境で、繰り返し時間をかけて、ある特定の精神状態に入る訓練が必要になる。これを「修行」と呼んでいる。 観音経を読むと、どんなに困難な状況に置かれても観音菩薩の法力を念じれば、たちまち困難が解消するというようなことが書いてある。火の海に落とされそうになっても、観音菩薩の法力を念じればそこが池に変わるから大丈夫、などということが例を変えながら延々と繰り返されている。それを素朴に信じられる人はそれで構わないが、普通の人はそんなことが現実に起こるとは信じることができない。では、観音経は馬鹿が読むものなのかというと、実はそうではなかった。 生きていると、いろいろと困難な場面に出くわす。そこで、さらなる困難や死の恐怖を連想してしまうと、パニックに陥る。困難の解決が無理だと感じてしまうと、無気力になり何もできなくなる。こうなってしまうと、困難な場で適切な対処が取れなくなる。冷静であれば対処する方法に気付くような場合でも、そういう適切な対処が取れない。 それを避けるために、日常から観音経を読み、「困った時もなんとかなる」という状況を思い浮かべる訓練を積んでいると、実際に困難な状況に置かれても冷静でいられるか、あるいは混乱してもすぐに回復できるようになる。すると多くの場合では適切な行動が取れるようになり、ついには現実に困難が解消する。そして、あらありがたや、となる。 過去の失敗に気を取られ、いつまでも気分が晴れず、結果として怒りっぽくなって他人を傷つけ、さらに気が滅入る、ということもある。こういう時には地蔵経が効く。どんな悪人であっても、地蔵菩薩の名前を唱えて敬い念じれば、過去の罪業は水に流され、どんな利益でももたらされるというようなことが地蔵経には書かれている。 地蔵経を毎日読んで、どんな悪行をしてしまっても地蔵菩薩の名号を念じれば救われると日頃から考える訓練を積んでおくと、自分の過去の悪い行いも悪いものは悪いと受け入れつつ許して前向きに生きることができるし、他人の過去の悪い行いも悪いものは悪いと受け入れつつ許して前向きに生きることができるようになる。結果として人間関係の厄介な場面でも争いにならず、結果として実際に社会的な利益がもたらされる。そして、あらありがたや、となる。 昔、まだWindows 95が普及し始めた頃、こういう要望があった。会社でBMPの画像をメールで送りたいのだが、容量が大きすぎるのでJPEG形式に変換したいというものだった。それを誰かが、ファイル名を書き換えて".BMP"を".JPG"にした。すると確かにアイコンが変わった。しかし当然だけれども、ファイル容量は全く変わらない。ソフトを使うと確かに開けるのに、おかしいな、というようなことになっている。 実は画像表示ソフトが拡張子を信用していなくて、ファイル内部のフォーマットを検出しているのでたまたまうまく表示されているだけ、という具合だった。一方Windowsのシステムはファイル名の最後3文字を見ただけでアイコンを選んでいたから、見た目だけは変換できていた。今の時代ならそんなことをする人もいないかもしれないが、当時のWindowsユーザーは手探り状態でウィンドウシステムを使っていたから、こういうこともときどき起こっていた。 同じように、ソフトをインストールせずにアイコンだけ別のマシンからコピーしてきても、そのアイコンは使い物にならない。アイコンはあくまで起動用のシンボル(象徴)であって、ソフトウェアそのものではない。かつては高度なソフトウェアを利用するには高度な知識が必要だったけれども、アイコンなどの便利なインターフェイスを持ったソフトは、中身を理解するためには高度な知識が必要であるにもかかわらず、利用するだけなら基本的な知識だけで足りる。機能について多少の誤解があっても、利用するだけなら問題ないこともある。 宗教とそのシンボルにも同じような関係があって、神学をはじめとした宗教論を本当に考え出すと、結局「世界とは何か、人間とは何か」という議論に行き着いてしまい、そう簡単に理解することができない。そして高度な宗教知識を利用するためには、それを知識として理解するだけでは不十分で、それを生かすための日々の修練も必要になってくる。それは、誰にでもできるというものではない。 ここで、宗教はたいてい二つの形式に分裂する。ひとつは、このような修練を終えた人だけに救いが与えられるのだから、誰しも修練すべきである、という考え方。もうひとつは、修練を終えた者たちがよく判断して、無理解な者あるいは未熟な者を救うから、一般大衆はただそれを信じ、供物を捧げていれば良いという考え方。当然、国家権力と相性がいいのは後者なので、広く普及する宗教はこのスタイルのものが多い。 こうした宗教も善良に運営されている限りは、信頼できるプログラムをアイコンから起動するのと同じように、確かに大衆を救い利益をもたらすので問題がない。宗教の真髄は何かを信じることによる心の安定だから、神や仏などを信じる人の心が安定し、社会規範と矛盾しない行動が取れるように人々を導けるような宗教指導者がいれば、宗教は良い道具であり続ける。 ところが、とにかく信じればいいのだ、という表面的なところだけが暴走すると、宗教は社会の中でトロイの木馬のような悪影響をもたらす存在になってしまう。信じないと地獄へ落ちるぞ、祟りがあるから払わないと災難に遭うぞ、という脅しや金集めを中心としたものは、たいていこの手の物ということになる。 善良な宗教であれば、地獄とはつまり自分の心の中にある罪悪感だとみなしているから、罪悪感を取り除くための儀式をして罪悪感を取り払い、以後その人は落ち着いた心で正しく生きていける、という解釈をする。亡くなった親や先祖に対して、生きている遺族の心に未練や悔いがあれば、それが自分の心の中で自分自身を責める苦痛になる。そういう苦痛を取り除き、心の中に残る死者の印象が苦しみや恨みから笑顔や安堵に変わるような精神的ケアのための儀式が、葬式や法要というものになる。 あくまで本来的な宗教がケアすべき対象は生きている人間の心であり、人々の心が健全であることを通じて高まる社会の治安にある罪の告白が有効であれば、懺悔ののちに許しを与える。懺悔(さんげ)とは本来仏教用語である。そういう心の転換に儀式が有効なのであれば、宗教指導者は五感に訴えかける厳粛な儀式を執り行う。仏教ではこれを方便と呼ぶ。 現代日本では、宗教界はもはやウィルスだらけの地雷源という様相でもある。宗教団体は詐欺集団のように扱われ、実際にそういう団体も多い。健全な宗教が持っていた伝統的な倫理観が崩れ、人々は他人の些細な失敗や無作法に憤り、自己の利益のために汲々として他人の利益に嫉妬し、結果的に経済の活力まで削がれている。 生きている自信がなく、怒りや悲しみに押し潰されそうなときには、香を焚いて、不動明王の像を念じて、不動明王の真言を唱える。自分の心にあるネガティブな感情が、炎の中で徐々に消えていくところをイメージする。自分の愚かさを不動明王の剣が切り裂くところをイメージする。そうしてしばらくすると、声を出すという身体的な動きの影響もあって、最初のネガティブな感情はだいたい消える。 次には、様々な形をとって大衆の前に現れるという諸観音の真言を唱える。最初は聖観音の真言をとなえながら愚痴を聞いてもらう。次は社会にはいろいろの手助けをしてくれるシステムが有ることを念じながら千手観音の真言を唱える。最後に如意輪観音の真言を唱え、片膝立てて六臂のうち一本の肘をついて如意輪を下げる観音菩薩の笑顔を念じながら、まあなんとかなるさと考える。 安いロウソクと線香、それから真言宗勤行法則(しんごんしゅうごんぎょうほっそく)というテキスト以外はほとんど宗教的な支出はしていない。ときどきお寺を回って賽銭を投げたり線香を焚いたりはしているが、その程度だ。本当はありがたいお説教をしてくださるお坊さんに供養をしたいところなのだけれども、残念ながらそういう人は身近にいない。 現代生活の中から宗教的なアイコンがどんどんと撤去されているけれども、それは宗教的シンボルたちが背景にある信仰心の実態から切り離され、単に古臭い美術品にされてしまったからなのだろう。そうなれば、それはもはや削除されそこなったソフトのアイコンや、拡張子を偽装されたデータのアイコンと変わらない存在になってしまう。 現代日本の凋落の原因の深いところには、神仏分離をした明治維新と、国家神道の抹消を図った戦後統治が色濃く影を落としているように思えてならない。
by antonin
| 2010-03-25 13:44
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