by antonin
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統計力学にも不可視な世界を前提とした妄想と言われた時代があって、まぁなんというか、そういう移り変わりというのはあってもいいのだろうと思う。 以前には私の勤務先とヨメの勤務先が直線距離にして100kmほど離れていたことがあって、そういう状況でムスメが生まれて、ヨメが難儀する姿を見てきた。そういう具合なのでヨメの勤務先も実家も近い今のロケーションに集合住宅の区画を購入して定住した。そういう具合で、コドモたちの世話の一部をヨメのお母さんにお願いしたりしている。 ムスメは私に似て段取りが悪く、反ゆとり政策を敷くヨメのもとでムスメはかなりストレスフルな生活を送っている。ヨメがムスメに対して苦言を呈する時には、そんなのできて当たり前なのになんでできないの、何度言わせるの、というような具合になることが多い。なんでかというと先天的な脳の造りの問題があるからなんだと私は思うのだが、そんなのは言い訳であって正しく気合を入れれば解決できる問題なのだと言われる。いわゆる甘え問題であって、そして半分は正しいのだけれども、半分は正しくないので、いろいろと厄介である。 そういう厄介の中で、ヨメは子供の将来を心配しているのだという。その心配による圧力の方がよほど将来の心配の種なんじゃないかと私は思うのだが、その将来の心配という強迫観念のような感覚をより強く持っているのが、ヨメのお母さんである。箸を持って立ち上がると転んで目を刺して死ぬ子もいるんだからやめなさい、というようなことを結構本気で言う。確かに医療現場ではそういう事例も報告されるのだけれども、確率的には限りなくゼロに近い。単に作法の問題でいいと思うが、1歳半でどの水準の作法を満たせばいいのかというのは難しい。 で、いろいろと話しを聞いているうちにわかったのは、お義母さんには幼くして死んだお姉さんがあって、そのお姉さんは母親が目を離した隙に煮えたお湯をひっくり返して、やけどで死んだらしい。そういう事件があって、ヨメのおばあさんに当たる母親はひどい衝撃を受けただろうし、なぜ小さい子供から目を離したのだということで周囲から責めの言葉を受けたこともあっただろう。そういう母親に育てられたのがお義母さんであって、その性格に強迫神経症的な部分が強いのも仕方のないことと思える。そういう母親と、苦労人の祖母に育てられたのがヨメであって、自分の子供に対してヨメが厳しく当たるのも、結果の善し悪しは別として、理解はできる。 私には妹があるが、妹が生まれたのは私が9歳の時で、それまでは一人っ子として過ごした。父には姉と兄がいたが、ともに離婚して独身だったので子供がなかった。母はやはり一人っ子だった。母が生まれた辺りは母が1歳になったばかりの頃に東京大空襲で焼けてしまい、その後家族は各地の親戚を転々として過ごしたらしい。そういう事情で、私にはイトコというものが一人もいない。小さい頃には兄弟もいなかった。自宅は賃貸マンションだった。そういう、かなり現代的な文脈で私は育った。私は気が利かない方で、頑張って気を利かせるとたいがいが裏目に出るのだが、それも私と両親それぞれの生育歴まで含めると仕方のない部分が多い。 そういう具合で、ある人の精神の土台には、その人を育てた精神というものが当然に影響する。これは再帰的なものであり、祖父母の影響というものが当然に発生する。間接的には教師なども影響してくるが、やはり根本的な性格の部分に影響するのは幼児期に育てた人物の精神だろう。それはだいたいが血縁者ということになるが、多産多死できょうだいが多かった時代に比べて、少産少死の現代ではその因子になる人物もより限定的になってくる。さらに地域社会が融け出して核家族が子供の精神世界の過半を占めるようになってくると、その影響は更に強くなってくる。 そういう意味で、現代というのは血縁者の人生で起こった精神的なイベントの影響が、世代を超えて子や孫の世代に伝わる程度が、実は過去の封建的な、高速交通が発達していなかった村社会に匹敵するほどに、強い時代なのかもしれないと感じる。 農耕型の村社会では、例外的に活動力の多い人物を除くと、人は生まれた土地からほとんど外に出ることなく一生を終える場合が多かった。そういう社会では当然に、ある人物の精神は両親を含めた血縁者祖先の影響を代々、少しずつ変化しながらも受け継いでいる。先祖崇拝は当然であるし、先祖の精神が形を変えて生き残っている場というのが、現に生きている子孫の精神の中であるというのも当然の考え方だっただろう。それを比喩的に言えば、道祖神とか輪廻転生ということになるのだろう。 やけどで死んだヨメの伯母であるとか、戦争で死んだ私の大叔父であるとか、そういう人達の霊魂が存在して何かをしているということは考えないが、そういう人達の死が生き残った人たちの精神に影響を与えたことは間違いのない事実だし、その影響が子育てを通じて今の自分やコドモたちに伝わっているということもまた事実だろう。そういう影響が隔世遺伝的な先天的特徴も手伝って色濃く再現する場合があるとすれば、そういうものを輪廻転生と呼ぶことも、比喩としては妥当な範囲だろう。 今まさに育ちつつあるコドモたちの精神に、私を含む祖先の精神の再帰的影響が刷り込まれていく現場を、私は日々観察していることになる。 そういう精神的痕跡の伝達というのは本来家庭という場で発生するものだが、かつては村社会という少し大きな場でも起こっていたのだろうし、現代では学校の教室という人工的な高密度空間で起こっているのだろう。そこでは教科書を通じて、時の政府が受けたトラウマのようなものが、親の知らない間に直接的に子供たちに受け継がれている。愛国主義にしても反国家主義にしても、近代日本人の精神には学校教育を通じて刷り込まれた国学者や無政府主義者の亡霊が刷り込まれているのだと、比喩表現を使えば、そういうことになるのだろう。 そういった影響を否定しても否定しきれるものではなく、自分の心の深いところにあるそういう感覚との対話を地道に繰り返していくしか、精神的な苦しみからの開放はないのだろう。それを輪廻からの解脱と呼ぶことも、まぁ可能なんじゃないかと思うようになった。 こういう個人的主観に基づく一見合理的な解釈がオカルト世界にまで及ぶというのは、あんまり健全な感じはしないのだけれども、そういうものに接近せざるを得ないような現実的状況に留め置かれたという事情もあって、やっぱり仕方が無いんだろうとも思っている。中道が守れれば、あまり実害もないだろう。リアリズムにしてもスピリチュアリズムにしても、何事も極端になってしまうからよろしくないのだと、先人たちは語っている。
by antonin
| 2010-05-27 12:34
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