by antonin
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死後の魂というのは、それ自体が存在するのではなくて、ある人の死後に残された人々の中にある、その人の生前の言動の記憶にある。ATOKだったら叱られそうなほど「の」を続けてしまったが、ともかく、最近ではそういう解釈をしている。人々の記憶に分散している状態でもそれなりに存在はしているが、複数の人の記憶を寄せ集めて会話に上ったりすれば、記憶された人格はより活動的なものになって再現できるようになる。お盆に親類が集まって先祖の霊を迎えるというのも、同じ人物の記憶を共有する人々が集まって、年に一度くらいは故人の話をして記憶を呼び戻す儀式だったのだろうと思う。 それでどうなるというわけでもないが、長老になってしまった人々にも先輩のあった頃を思い出して厳粛な気分になる機会にもなるだろうし、間もなく死んでしまうだろう人にも、こうして死後も人の口に上るだろうという安心感を与えるに違いない。人が死んで無に帰すということは古代の人も一定割合で気付いていただろうが、実際に死に際して無に帰すというのは恐ろしい感覚だろうし、そういうものを薄めるための知恵として、死後の世界を演出するということは必要なことだったのだろう。あの世にも極楽と地獄があるとすれば、信じる人には善行をさせることができただろうし、そういう人ほど死に際して安心感が強くなるなら、一石二鳥というものだったろう。 人の脳の中にあって外面から見えないのが第一の魂で、西洋的な脳死の概念が人の死と定義するのも、この第一の魂ということになるのだろう。一方、人の言動を通じて周囲の人々の記憶に分散して残るのが第二の魂で、人の脳が機能停止に陥っても、その肉体の形や体温や、場合によっては骨の一辺が拠り所となって記憶が呼び出されることで生き続けるという、東洋的な精神というのはこちらの第二の魂ということになるのだろう。記憶が消えて無くなるのに要するのが、およそ三十三年という推量でもあったのだろう。 西洋的に内面を重視すれば、たとえどのような孤独な環境にあっても意識が鮮明でありさえすれば、その人の魂は生きていると言える。東洋的に外面に拡散した魂を重視すれば、肉体的な脳が停止しても縁者の記憶を通じて、骨にでも生前に愛用していた遺物にでも魂は宿って生き続ける。その一方で、肉体的には生きていても、周囲の人々の記憶から消え去り話題にも上らない人物というのは、生きながらにして死んでいるのと同じということになる。 年に一度も人の話題に上らず、人々の記憶からも徐々に消えている人というのは、どんなに健全な肉体と頭脳を維持しているとしても、東洋的な第二の魂としては既に死んでいて、徐々にニギタマに近づいていく存在になっている。こちらの方がむしろ東洋的な脳死というものに相当するのかもしれない。 人々の記憶に生々しい、活動的な人であれば死は恐怖だろうから、突然無に帰す即物的な生死観よりも、別世界ではあるけれども時間的に継続していく死後の世界を信じた方が、死に際して救いになるだろう。しかし、人の記憶に疎い、生きながらにして緩やかに死んでいる人にとっては、死後にさえ世界が継続するという生死観よりも、むしろ何も残さずきれいに消えてなくなるという死を信じた方が、むしろ救われるという場合もあるだろう。 学生時代に数式を理解できなかったという人には、その後に数式をほとんど目にしない人生を過ごすのも難しくはないが、人情が理解できなかったという人が、その後に人情をほとんど気にせずに残りの人生を過ごすというのは、非常に難しい。むしろ年齢を重ねるに従って人情がらみの厄介に巻き込まれていくことの方が多く、何かと面倒になる。 老いると頑迷になる人も多いのだけれども、そういう頑迷の背後にあるのがいろいろの喪失であると気付くと、いたたまれない気分になる。気付くのは気付くのだが、こちらがその喪失を埋め合わせるほどの強さを持っているわけでもなく、面倒は続く。 おんぼうじしった ぼだはだやみ おんあみりた ていぜいからうん
by antonin
| 2010-10-03 22:07
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Comments(2)
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by
あらーきー
at 2010-10-06 00:52
x
とても勉強になります。
最後の呪文みたいなものはお経ですか?
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antonin at 2010-10-06 02:11
>あらーきーさま
コメントありがとうございます。 でも勉強は他でやったほうがいいかと思います。ここは思い付きを書いているだけですので。 最後のは真言宗で使う呪文です。呪文というと日常語として別の意味がかぶさっているので、仏教用語風に「咒」(しゅ)と言ったほうがいいんでしょうが、似たようなものです。 最初のは「苦しみのない心になりますように」というような意味です。次のは「阿弥陀如来に祈ります」というような意味で、漢文で書くと「南無阿弥陀仏」になります。言葉の裏にはそこから派生した無限の意味合いが含まれていることになっていますが、文面ではそんな感じらしいです。 ここに書いたのは、正しい伝法の修行をしたお坊さんから授かった真言宗の正しい作法ではなくて、私が適当に呪文を並べたものです。本当は素人がこういう講釈まがいのことをすると仏罰が下ることになっています。 現代風に言うと、弁護士資格のない人が法務関係の交渉を代行すると罰せられるような感じです。
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