by antonin
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若い女性が、腕や、背中や、足を惜しげもなくさらけ出して歩いている。男性の姿というのは、100年前の写真を見ても古風だなという以上のおかしさはあまりなくて、かなり保守的なところがある。女性の姿というのは、20年もするとこれは同じ国の風俗なのかと疑いたくなるほど変化していて、ときどきリバイバルなどもあるが、100年前の写真ともなると、何かファンタジックな感じすらする。そういう風に女性の服装には流行があるのだけれど、その流行の最先端を走るのはいつも娼婦の世界だという説がある。ブーツは軍人が雨の原野を行軍するときのためのものだったが、それを女が履いてみせたのは軍人相手の娼婦が最初だったという話もあるし、靴の踵を高く上げたのは誰だか知らないが、ハイヒールの踵をピンヒールにしたのも娼婦が最初だったと聞く。そういうものが、10年もすると一般女性の服装として流行してくる。 アイコン的な、特別な意味の紐付けが薄れたからというのが普通に考えるところの理由なんだろうけれども、男を誘うことをナリワイとする女性の選択が、最終的に一般女性にも魅力的に映るということは、何か先天的な女性の性質に訴えかける部分もあるんじゃないかと思う。別に直接に男性へのセックスアピールを意識してはいないのだろうけれども、逆に言うと、無意識にそういうものを求める性質が女性にはあるのだろう。だから、女性というのは本質的に娼婦の部分を持っていると言える。 平和な時代が続いて、戦争経験者が老人ばかりになる。そういう時代に男はどうしているかというと、企業組織に入って、「企業戦士」などと呼ばれている。ひどい現場には過労死や過労自殺などの「企業戦死」というような事態も見られる。覚めた目で見ると、彼らは企業組織の奴隷的存在なのだけれども、強制と苦痛にまみれているだけでもなく、どこか嬉々として目を輝かせながら自律的に働いている男が多い。男が集まって組織を作ると、中央集権的で規律的な組織にしても、フラットで自由な組織にしても、最終目標として競争と勝利を目指す場合が多い。男性の場合は、本質的に生まれながらの兵士の部分を持っているのだろう。 女性の娼婦性というのは、進化と淘汰の仕組みに直結するので当然という感じもあるけれども、男性の兵士性というのも、人類の進化の過程でどこか必然的な理由があったんだろう。自然環境には波があって、状況の良い年には食料が豊富になる。そうすると、人類に限らず動物というのは食料の範囲内で最大限まで増殖する。人間向けの用語で言うと、人口を増やす。ところが波には必ず下り坂があって、食料の減少局面、人間向けの用語で言うと、飢饉が発生する。 そうなると、まずは身の回りで極限まで食料を探し出す。こういう過程で人間はナマコやゴボウの味を覚えていったのだろう。ときどきフグやトリカブトを食べて死んだりなんかしながら。それでもダメとなると、他の土地を探す。それで食料が見つからなければ死滅するが、無事に食料が見つかればそこで暮らすことになる。そのとき、そこが空き地ならば無事解決だが、先住民がいるとなると、別の土地を探すか、先住民と戦うかのどちらかになる。私たち人類の祖先は、そういう場面で結構頻繁に戦ってきたというのが、言葉で伝えられた歴史にも残っているし、遺伝子の中にも色濃く残っている。 結局のところ、死を選ぶのか戦争を選ぶのかという場面が人類史の中に頻発していて、その中で戦争を選び、なおかつ勝ち残ってきた遺伝子が濃厚に堆積しているのが、現生人類の中でも特に文明の中心部分にいる民族なのだろう。日本人も、まずまずその部類に入っている。 で、なんというか、人類の本能的な感覚として、苦しくなると戦いと略奪を選択したり、その戦いの勝者に魅力的に映るように努力したりと、なんとなくそういう感覚が組み込まれているように思う。良いとか悪いとかではなくて、進化の偶然と必然の結果として、そういうふうになっている。一方では、戦いを選ぶより座して死を選ぶとか、なにはともあれ逃亡するとか、そういう草食的な遺伝子も堆積している。このあたりは性別を越えて混ざり合う部分があるらしく、男より男らしい女とか、女より女らしい男というのが、統計学の許す可能性の範囲内で登場する。 人間にはそういう本能的な感情が、個人差はあるにしても、備わっている。その本能のままに生きるのが野生で、そういう本能を克服し、理性が計算して設計する理想を、苦痛を感じながらも守っていくのが、文明というものの本質なんだろうと思う。その結果として人類はひと時にしても地球生命の覇者というような位置に立っている。ただ、なんというか、いま現在私たちが文明だと思って追い求めているのは、それは本当の意味で文明なんだろうか、という疑問がある。 古い因習があって、従来の人類はその因習に従って生きてきた。今の日本が目指している文明というのは、過去の因習は無知が生み出した産物なのだから、文明によってその因習から人間を解放し、文明的な自由を手に入れて発展しよう、というような信念がある。 ただ、この「自由」というやつが厄介で、なんとなれば、究極の自由とは、偶然まで含めたすべての責任とセットにして引き受ける、完全自由競争の世界になる。資本主義者が信じる市場原理の完全性みたいなものを最大限に実現しているのは、ルールがないのがルールという中ですばらしい進化を実現してきた、純粋に弱肉強食の進化論的世界ということになる。もちろん、現実の資本主義者は完全な自由競争までは主張していないので、「究極」の話を批判と取られると面倒なのだけれども、実は資本主義者というのは、市場原理の正当性という、ある種野生的な競争と淘汰の世界を目指すような志向は持っているということになる。 自由競争の創造性というのは素晴らしいもので、自然界にも追うチーターの駆動力と追われるガゼルの跳躍力も産み出したし、花と蜂の相互依存からハゼとエビの共生に至るまで、さまざまな協力関係まで産み出している。虫たちの擬態や孔雀の羽も、全て自由と競争と淘汰の原理が産み出したものだ。人間社会もその延長線上にあって、資本主義と社会主義の競争まで含めた大きな意味での競争原理は、とうとう人類を月に送り込んだ。 一方でその裏側には当然のように競争の敗者たちが累々と横たわっていて、一定数のガゼルはつねづね食われているし、ガゼルに追いつけないチーターの子は、親の頭数を大きく超えない程度に餓死している。蜂やハゼにどういう悲劇が起こっているのかまでは詳しくないが、資本主義と社会主義の競争では多くの人命が失われている。 そういう自由競争の持つ残忍さを拒絶して、理性の力を極限まで信じたのが、ヒトラーあたりまで含めていいと思うのだけれど、社会主義者たちだろう。ただまあ、現実の社会主義国は資本主義国もびっくりの残忍性に陥ってしまったし、そういう事態を見る前に、日本では飛鳥時代に「公地公民」という大陸伝来の社会主義に基づく国家を目指したものの、結局人間の本能的な意欲を生かしきれなくて、なし崩し的にそれを諦めていったという歴史を学校で習っている。 で、結局日本では「一所懸命」とか「お家大事」という原理を抱えつつ、江戸時代の終わりまで続けてきた。これが西洋文明との接触で大変な衝撃を受けて、尻に火のついたような勢いで急激に「文明開化」の道に走り始めた。そしてチマチマした内戦とか4回くらいの対外戦争を経て、「未開の因習」を脱して、すっかり「文明国」の中でも「先進国」になった、というふうな認識でいると思う。 ただ、最終的な着地点が、民族主義と帝国主義を乗り越えた先の自由主義というところにあって、文明化が一周回ってむしろ野生的になってきているように見えるようなところも、一部にある。アメリカとの戦争に負けて最新式の憲法を頭上に戴いた日本は、その源流に当たるアメリカ文化をかなり脅迫的な勢いで取り入れていく。占領軍の兵士たちが勝利の"Victory"サインを示しながら、「米国の勝利による平和の到来」という意味で"Peace !!"と言いながら写真を撮っているのを見て、「写真を撮るときはピースと言うんだ」という具合の貪欲さで、文明と文化をない交ぜにして吸収していく。 一方で化学・機械・電気などの産業を爆発的に進歩させながら、帝国政府が唱えていた男女分権よりはアメリカ的な「女性解放」の流れなども選択していく。「お家大事」で家系の継続を優先していた見合い結婚は徐々に廃れていき、自由恋愛主義に向かう。堅苦しい因習を我慢していた頃よりも、感情のままに恋愛するのが素晴らしいのだという自由の中で、若くて美しい男女が「文明」の魅力に落ちた。ただ、男女の恋愛と自由がセットになると、そこに現れる風景というのは想像以上に野生的なものらしい。強くて活動的な少数の男と、男を惹きつける魅力を振りまく多数の女性と結びつき、男は富を求めて男同士で移動しようとし、女は安定を求めて女同士で定住しようとする。そういう、人類というよりヒトの原型のような世界がチラチラと姿を現し始めているようにも見える。 確かに技術的には今の日本というのは人類史上最大限に文明的なのだけれども、現代の常識から見て数多くの非合理に見える「因習」にまみれていた過去の文化のほうが、どちらかというと人間の原始的な感情を克服しようとする文明の本質に近かったんじゃないかというような推論になってしまう。街の景観などを見るとひどく因習的かつ文明的に見えるヨーロッパだけれども、一方では結婚制度という因習を徐々に破壊して、自由主義にとって心地よい世界を模索していく方向に動いているのが不思議に見える。 日本はこれからどちら側へ舵を切っていこうとしているのかちょっと見当が付かない。アメリカは自由主義の総本山だけれども、もう一方にキリスト教という因習の雄も同居しているので、意外に面白いところでバランスを取っているように見える。一方の日本は、寺社奉行と明治政府によって仏教を骨抜きにされ、占領統治で国家神道も骨抜きにされたので、もう天然自然の自然崇拝とかアニミズムとか、そんなものくらいしか因習的文化が残っていない。この状態で経済的にも何かがロックオンしてしまっているのか、20年くらいゼロ成長を続けるという、ある種の超安定モードに入っている。 この超安定モードがどういう終わり方をするのか、バリッと音を立てて暴れながらどこかにすっ飛んでいくのか、あるいは音も立てずに静かに沈んでいくのか、そのあたりはわからない。わからないのだけれども、いろいろな内部パラメータを動かしながら、当面はこの超安定モードが続いていくんじゃないかという気がしている。たぶん、私たち団塊ジュニア世代とその周辺が苦痛に顔をしかめながら団塊世代をあの世に送り出したあたりでモードが劇的に変わり、その先は、人間働けなくなったらベッドに横たわりながら五穀断ちなんかをして静かに最期を迎えるというような、比較的野生に近い世界に移行するんじゃないかという予感はしている。 「楢山節考」で、捨てられるというよりも強靭な意志を持って自分を捨てさせるばあさんが主人公なのだけれど、2050年に79歳を迎える自分が、どの程度このばあさんに似た心境を持つに至る経過をたどるのか、あるいは昭和とさして変わらない感覚で終わるのか、そのあたりの予測が付きにくい。親の死を見て、「こうやって死にたい」と思うか、「こうは死にたくない」と思うか、結局はそのあたりが分岐点になるんだろうと思う。 死というのは生命に対する淘汰で、廃業というのが企業に対する淘汰になる。競争と淘汰が進化論と市場原理の根源なのだけれども、純粋な競争と共同利益による協力の落としどころをどこらへんに求めるかというあたりが、文明の仕上がり具合を計る目安になるんじゃないかという気がする。例によって、理想的中庸というのは近づくと見えなくなる逃げ水みたいなところがあるので、現在の茹で蛙みたいな状態が数少ない理想状態のひとつなんだという結論も、案外あるのかもしれない。
by antonin
| 2011-08-04 14:36
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