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リフレ派の理論を色々と集めているのだけれど、日本でもその理論が成立するという感覚がまだつかめない。理論としては整然としているし、また欧米の合理的な市場では比較的理論に忠実な挙動を示す感じも伝わってくるのだけれど、合理的な市場を成立するために欧米で行われている諸々のコントロールがほとんど成立していない日本の市場にまでその理論が成立するというところまで外挿できる情報にまだ行き当たらない。うーん、という感じ。 論理(Logic)というのはその制約の範囲内で信用できるのだけれど、理論(Theory)というのは制約範囲がわかりにくいので、個人的にはあまり信頼していない。特に経済学と教育学の理論は信頼感が低い。アクションからレスポンスまでの時間スパンが、人類の学習能力に対してあまりに長すぎるから、実験はできても検証が難しいという点で共通している。 国家に借金がある場合はそれを返済する努力をしないと悪性インフレになる、というのは論理に基づいた推論の結果ではなく、過去の経験による理論だ。まあ後付けの論理推論も存在するけれども。こういったものを疑うのは妥当だと思うのだけれど、だからといってその対局にある成分を多分に含んだリフレ理論を頭から信用するのも、あまり利口な態度には見えない。ただ、まだリフレに対する私の疑心は直感的な範疇の中にあって、論理的な穴を見つけるところまでには至らないのが腹立たしい。 日本のデフレはひとつに需要の不足と供給の過剰という原因があって、その根には輸出を過剰に保護して輸入を過剰に防御している貿易障壁が自由貿易による為替の均衡を狂わせていたから、と、今でも思っている。このあたりにはTPPが利いてくるはずだ。もうひとつの心理的な要因として、日本が世界に誇る国家による国民皆保険としての健康保険と年金制度があるのだが、それらが制度疲労によって持続可能性に対する国民の強い不信を買い、そのために特別会計という巨大金融システムが信用収縮を起こした、というものを考えている。 こちらの信用収縮に対しては、福祉目的税としての消費税を増税することが、国家はまだ国民皆保険制度を破綻させるつもりはないというメッセージになり、多少は信用の維持に働くので、デフレ阻止の効果があるということになる。ただまあ、制度疲労の根本は何も改められていないので、将来への不信感という意味では焼け石に水みたいなところはあるんじゃないかとも思っている。 普通に考えて、在野のエコノミストよりは財務省と日銀を信頼するほうが妥当な判断だろう。日銀が馬鹿だと言えるほどの自信はない。日本のマスコミは信頼出来ないのに海外のマスコミが傍目八目で信頼出来るという気もしない。東電なんかは実務のプロであるにもかかわらず原発を爆発させてしまったので、プロならなんでも信頼出来るというわけではないが、GEとか東芝の技術者たちはそれなりに信用しているし、東電でも現場の担当者はやはり信頼が置けると思う。経済のプロについても、だいたいそういう感覚で見ている。 解雇要件の緩和は結構だが、いわゆるセーフティーネットの部分をちゃんと整備しないと、企業活動における固定費の弾力化による競争力強化の利得なんて、いつ路頭に迷うかと戦々恐々とした暮らしの中で被雇用者が支出を絞る信用毀損による損失一発で吹き飛び、むしろ大穴があくんじゃないかと思える。失業しても案外なんとかなるよね、という社会的な実績と信頼がないと、解雇要件の緩和は日本経済にトドメを刺すんじゃないかという気がする。 -- 「絶対にAに違いない」と思うのが「信じる」ということだとすると、それを疑うというのは「Aではないかもしれない」と思うことである。ところが、人々は(大変知的な人であっても)「絶対にAではないに違いない」と思ってしまう。これは結論が表と裏の関係にあるだけで、疑うのではなく信じているという点で何も違いがない。 まあ、人間の頭で「疑う」というのを正確にやるのは非常に難しい。疑うという行為を突き詰めると、「当たり前」の水準まで破壊してしまうことがある。これを「自然な自明性の喪失」というのだけれど、自然な自明性というのはとても大事なものであり、これを失うと、ありうることとありえないことを簡単に区別する基準がなくなってしまい、しばしばありえない結論に飛びつくことになってしまう。 論理的に考えるといろいろの推論が出てくるのだけれど、人間の頭というのは結論に対して「そういう結論もあるのか」と感じたり、「そんなわけないだろ」と感じたりする機能があって、これはだいたい正しい結論を出す。ただ、疑うことを徹底し過ぎて自然な自明性を喪失すると、「そんなわけないだろ」という歯止めが利かなくなり、創造的な発見をする可能性が出てくる一方で、狂ったような妄想に取り憑かれることもある。私は一時期この水準まで行ったんだと思う。 そして、もっと生理的に、聴覚や視覚の動物的認識という低水準まで自然な自明性がぶっ壊れると、いよいよ幻聴や幻覚が現れてくることになる。「そんなことあるわけない」という機能の崩壊が、意識下の水準で発生してしまう。私はこのレベルには達したことはないが、地続きではあったな、という感覚もある。 だからなんというか、人間の脳の生理にとって「信じる」ということは健全なのだけれど、一度は自然な自明性を失った身からすると、信じる人の信念の強固さには感心するやら呆れるやら、そういう感覚がある。 -- 今日のところは「経済」と「懐疑」のあたりで終わりにしておこう。時間も時間だし。リーク情報のクレンジングとしての陰謀論ジャーナリスト、というか、ベンジャミン・フルフォードさんを情報エージェントとして位置づけて見るとなかなか面白いよ、なんていう妄想話も考えていたのだが、またそれは別の話ということで。
by antonin
| 2013-10-21 02:48
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