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最近、「レイシズム」だとか「レイシスト」という単語をときどき目にするのだけれども、ここで言われているのが朝鮮民族と大和民族の間の関係だったりして、こりゃなんだろう、と思った。 "racism" の前提として、"race" の存在がないといけない。race には一応「民族」という語義もあるけれども、一義的には「人種」だろうと思う。なので、"racism" というと普通は白人至上主義を指す。中には少し特殊化したracismであるアーリア人種優越説とういうのがあって、ゲルマン人やラテンヨーロッパ人をはじめとして、インド人でもアーリア系の人たち、歴史の過程で北部から侵出したハイカーストの人たちは支配者たる民族で、ヨーロッパ人でもユダヤ人種は血統的にアーリア人種じゃないから被支配者たるべき、というような話になる。 なので、レイシズムというときには、その背景に遺伝的な優性仮説を頭から信じるという過程がないといけない。なので、韓国籍の人が日本国籍の人をレイシストだと批判する場合には、朝鮮民族と大和民族の違いが、文化的なものではなくて遺伝的なものだという前提がないといけない。 ただ、現代日本人というのは文化的にはかなり均質なのは間違いないのだけれども、人種的にどうなのかというと、遺伝情報の調査が進むにつれ、個人間でも多様な遺伝子が混在しているし、その多様性は地域的な差異としても存在していることが明らかになりつつある。これは実は朝鮮半島でも同様で、複数の遺伝タイプが混在していることを示すデータが出てきている。 中華人民共和国という国家は多民族国家ではあるものの、その中枢にある漢人の遺伝子を調査すると、あれだけの人口と複雑な歴史を持つわりに、意外に範囲の狭い遺伝的分布をしているらしい。まあ、多民族の中から漢人とわかる人を分類したうえで調査しているのだから当たり前じゃないかという話はあるが。 そして、現代の大韓民国でサンプリングを実施すると、その漢人系と、北方のアルタイ人系、それに北九州と同じ弥生人系の遺伝子が混合している。日本でも弥生人系が優勢で、そこにアルタイ人系が混ざっているのだけれども、韓国との違いとして漢人系の遺伝子がほとんど見られず、代わりに琉球系やアイヌ系に多く見られる縄文人系の遺伝子が混ざっている。 そういう遺伝的な違いというのは確かに朝鮮半島と日本列島の間にはあるのだけれども、人種差別というほどの「人種」の違いがあるのかというと、そうでもない。特に、日中韓の東アジア人の区別もつかないような(まあ、日本人である私自身にもあんまりはっきりと区別はできないけれども)ヨーロッパ人から見ると、韓国人が日本人を "racist" と呼んでいるのは、きっと変な感じがするんじゃないかと思う。 「偏見」とか「差別」というのは、明らかに存在しているとは思うし、それが存在する理由も排除していかなければいけない理由もわかる。偏見というのは「偏った見方」という熟語になっているけれども、英語にすると "prejudice" になって、直訳として「予断」という熟語もある。つまり、目の前に何か価値判断をしなくてはならない対象があるとき、それを何かの属性によって分類し、その属性によってのみ価値判断し、対象の個別性について考慮しないとき、「予断」が発生する。 ある人を見て、その人の性別だとか国籍だとかだけを見て、その人の個人的な能力や事情や意志を無視して判断することが差別なのであって、性別や国籍によって推定される能力や事情や意志が、実際にその人個人にも当てはまると判断されるとき、その能力や事情や意志により処遇を決めることは、別に差別ではない。 なので、「日本人は勤勉だ」という先入観を持っている人が他人を雇用しようとして、日本人と日本人ではない人が応募してきたとき、国籍だけを見て日本人を採用するのは予断による差別になる。でもその日本人Aさんとその日本人ではない人Bさんを調査して、実際にAさんが勤勉だと判明したためにAさんを採用するなら差別にはならない。もし調査結果としてBさんのほうが勤勉という結果が出ていればBさんを採用したまでのことだからだ。 この場合、実際の雇用判断が公平ならば、「日本人は勤勉だ」という先入観自体は罪にならない。なぜならそれは単に統計的な事実かもしれないからだ。極端に言えば、統計的に見ても間違っている先入観を持っていても、公平な判断をする努力があれば、やはり先入観は罪とならない。思想には自由があるべきで、罪は誤った行為に対してのみ求められるべきだとすれば。 だから、統計的な真実を参考情報程度に考えずに、古典論理的な真実と解釈して楽に個別の判断をしてしまうのが予断の発生する元で、この予断によって重要な判断が行われることが差別になる。なぜ予断が横行するのかというと、予断によらず常に公正な判断をするのは、面倒でしんどいことだからだ。予断のほうが単純で簡単であり、楽で時間もかからないからだ。効率的でスピーディーで低コストで、しかも統計的には正しい場合が多い、つまり何度もやっていけば平均的には良い成績を残すからだ。 ただし、法人にとっては平均的に良ければ正しい判断となるようなことでも、個人にとっては一生を決めるような重要な判断となる場合もある。そういう判断を統計的予断によってなされてしまうと、本当は適性のない人が、適性の高い指標を持つ属性を持つために、予断によって選別され、一方本当は適性のある人が、適性の低い指標を持つ属性のために、予断によって落選する。 人間には「立場が人を作る」という傾向があって、属性から導き出される統計的な指標によって選別を続けると、統計的に優位の属性を持った人は良い立場を得やすく、良い立場を得た人はその立場によって育てられて成果を挙げる確率が高まる。そして劣位の属性を持った人は良い立場を得にくく、劣った立場を得た人はそれによって能力が育たない。この正帰還によって、属性による統計的な指標の差はますます開いていき、最初は偶然だったかもしれない属性による違いは、実際に根拠のある違いとして定着してしまう。 統計分析の強力なところは、この属性による優劣を標本数の平方根に比例した精度でいくらでも炙り出せる能力なのだけれども、統計分析が語るのはあくまでカテゴリーやクラスという階級に対する知見であって、逆に個々の事例に対しては予断はできても確定判断ができない。もう言ったとおり、個々の判断が重要ではなく繰り返しが可能な判断については統計による予断が有利に働くが、やり直しのきかない個別判断には無力なばかりか、不適切で誤った予断に陥る場合が一定確率で起こってしまう。 「最強の学問」であるところの統計学の、最も凶悪な部分はここに由来する。まあ、これは単なる道具である統計学の問題ではなくて、道具の使い方の問題でしかないのだけれども。使いやすい統計量である「偏差値」そのものが悪いということはなくて、個人が学校に期待する教育そのものより、模試結果による入試の合格可能性だけしか見ない「偏差値教育」が悪い、というのと似たようなあたりになる。 なので、国籍や祖先の来歴などによって人が重大な判断で間違った扱いをされること、つまり差別というのは弱い個人にとって悪いものだけれども、朝鮮民族が大和民族に「民族差別」されているなどと考えることは、それ自体がまた妙な民族主義というか、ある種の信仰の産物なんじゃないかと思う。日本人にも大和民族以外の人はいっぱいいるし。 今ゆっくりと読んでいる本に、上代の8母音がどうやって生まれてきたかという仮説が書かれていて興味深いのだけれども、その中で、東歌には甲乙の母音区別がないという話もあって、「あづま」の人々は大和民族とはかなり違う人達だったんじゃないかと思う。古い文献には「毛人」という単語も出てくるけれども、今でいうアイヌの人たちとも違うんじゃないかと思う。そのアイヌにしても、本当に毛深くて彫りの深い系統と、列島先住の縄文系統の混血になっていて、遺伝的には単一民族とはいいがたい。 まあ、要するに異文化への嫌悪感とか、結局はそういうところに集約して終わりなんだと思う。他文化への尊敬を持つためには、自文化への自明な肯定、驕慢ではない自己愛や矜持を持つ必要があるのだけれど、外来文明の吸収によって立身出世してきた国家の住人にとっては、あんまり簡単なものでもなく面倒くさい話ではある。これは、日韓に共通した話だと思う。
by antonin
| 2014-06-19 23:20
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