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小学生だった当時には修学旅行という行事はなく、林間学校という学外教育がそれに近い扱いになっていた。私は関東の小学校にはよくあるように、小学6年の林間学校では日光周辺を見学した。観光ガイドに案内され、今では世界遺産に指定された日光東照宮も巡った。日暮らし門とも称される陽明門を見た。その凝った作りに圧倒されたような気もするが、当時の記憶はあまり残っていない。逆さ柱の説明で、完全を嫌ってわざとそうしてあるのだと聞き、そういうものなのか、と思った。 社会に出て、いくらか仕事をしてみると、あの壮麗な様式の門を作るには高度な技能を持った職人の仕事を管理する、難しいマネージメントがあったのだろうということにも気づいた。完成は崩壊の始まりであって、徳川幕府の永続を願い創始者を権現として崇める神殿の門に、未完の部分を残すという感覚もわかった。が、同時に、あんな目立つところでそれをするだろうか、という疑問も持った。 天下の名職人がこれから続くであろう太平の世に永く残そうとする逸品に、柱を一本逆さにするということがあるだろうか。小さな彫像を置けるスペースを少し残しておくとか、目立たない部分に色の塗り残しをしておくとか、そのようなことで足りるのではないかとも思った。これも仕事の経験から、実は純粋なミスから陽明門のあの柱をうっかり逆さに立ててしまった職人がいて、その報告を受けたマネージャーが頭を抱えるシーンを想像した。 もしあの逆さ柱が施工現場のミスなのだとしたら、この美しい門の柱が非対称などという醜態は断じて許されないと、門のデザイナーや柱を彫った石工は激烈に主張しただろう。かといって一度組んでしまった柱を引き抜けば、基台になる石が欠けてしまうかもしれない。あるいは柱そのものや周囲の彫刻を壊してしまったりするかもしれない。そんなことになったら納期は大丈夫なのか、しかしこんなミスを残せるものか。そんな怒号が飛び交うところを想像した。 そして最後に腹を括ったマネージャーが、これは敢えて仕込んだ不完全なのだと嘯いて、柱の組み直しそのものを中止させたのかもしれないと疑うようになった。そんな説明は明らかに嘘なのだが、もはや他に手はない。命に代えても嘘をつき通せということになり、そうして突き通した嘘が歴史の中でまことになり、今や観光客に対してもそのように説明されているのではないか。そんなことを想像した。そういう話も、ある意味とても日本的ではないか。 逆さ柱それ自体は、日本建築の常識として非常に縁起の悪いものとされているらしい。柱となるのが木材である場合、その木には当然に根と梢があって、材木となってもそれを逆さにして用いると柱が苦しみ、それは住む人を不幸にするのだという。なのだとしたら、東照宮の中で最も華やかな門が逆さ柱を持つということは、たとえそれが石柱なのだとしても、徳川家を呪う行為にさえ捉えられかねない。そうなれば一大事である。寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字が戦の因縁となった記憶もまだ新しい時代のことだ。 東照宮の普請の状況をネット上で簡単に調べてみると、日光東照宮造営の最終責任者として中井正清という、江戸城や駿府城の天守閣なども造営した、徳川家康に縁のある京大工の棟梁の名が挙がっている。ただし、現在目にすることのできる壮麗豪華な陽明門は3代将軍徳川家光の代になって造り替えられたもので、その頃には中井正清はすでに亡くなっている。この寛永の大造替の責任者は甲良宗広という棟梁が務めている。 また、日光市の年表にも簡単な記載がある。 ここで気になるのが「1617(元和3)年4月22日、東照社造営副奉行 本多正盛が切腹を命じられる」という記述である。何やら穏やかではない。これは寛永の大造替ではなく家康没後1年で行われた最初の日光東照宮造営の年の出来事なので、石の逆さ柱を持った陽明門とは直接の関係はない。が、当時から木製の質素な陽明門があって、荘厳な陽明門の石柱が「今さら嘘とは言えなくなった初代陽明門の逆さ柱伝説」を引き写したものだと考えると、これはこれで興味深い。何があったのだろう。 そもそも元和の日光東照宮創建の際にも陽明門が無ければ話にならないので、先にそちらを調べてみる。下記のサイトに非常に詳細な説明があるが、陽明門の創建が「1617年(元和3年)」と記載されいる以外、寛永の大造替前の陽明門に関する説明はない。 ただし、以下のような記述がある。
徳川家康へ東照大権現の神号が贈られるのが元和3年であり、後水尾天皇の在位は大造替前の寛永6年までなので、元和3年の時点で勅額門があったと考えること自体は問題がなさそうだ。となると、関心は「東照社造営副奉行 本多正盛が切腹を命じられる」という事件がどんなものだったか、というあたりへ移る。 (つづく)
by antonin
| 2018-07-28 22:51
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