by antonin
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前回 の続き。 けっこう間があいてしまったが、前回の記事を書いた時点で持っていた以上の情報はあまり得られなかった。それほど真剣に調査したわけでもないので仕方がないが。 前回は「東照社造営副奉行 本多正盛が切腹を命じられる」というのがどういう事件だったのか、という問いを発したところで終わったのだが、このあたりの情報をネット上で検索すると、いくらか情報が得られる。 こちらの記事によると、 東照社(東照宮)造営副奉行を務めた本多正盛は同僚との意見の対立がもとで諍いとなり相手を刀の鞘で打ちすえてしまったそうです。この件が原因で相手の山城宮内は自害、その責任をとって正盛も妻の妹の嫁ぎ先である板橋城の城下で自刃、遺骸は例幣使街道(国道121号)に面した板橋の福生寺に葬られました。 とある。ここで新たに山城宮内という人物が現れたが、この人は山城 宮内少輔 忠久といって、関ヶ原以前に徳川家康の書簡を携えて京極高次を訪ねたというような記録に名前が見えるものの、あまり目立った人物ではない。 本多正盛自刃の件を調べると、どうやら「かたき討ち」という新書に、指し腹という制度というか風習というか、そういうものの実例として挙がっているらしい。 文庫版もある。 新書のほうが地元の図書館に所蔵されていたので借りて読んでみた。『寛政重修諸家譜』という文書に事の次第が簡単に記録されており、その詳細は『校合雑記』という文書に記されているという。その部分の解釈を引用すると、 「本多藤四郎と口論に及びましたが、人々の仲裁で、その場は事なく和睦しました。ところが藤四郎が退座の際、彼の刀の鞘が、鼻血が流れるほど強く私の鼻に当たったのです。夜中だったので、一座の者たちはもとより、藤四郎自身も気付かぬ様子でしたが、はたして本当に気づかなかったのか(それとも故意にぶつけたのか)、彼の本心は分かりません。そこで貴殿のご指示を承り、それによって、生死を決しようと思って参上した次第です」 藤四郎というのは正盛の諱だが、これは山城忠久が福島正則のもとを訪ねて相談した際の言葉なので、「貴殿」というのは正則を指している。これに対して正則が、本多正盛を名指しして腹を切れ、そうすれば正盛も腹を切らざるを得ないし、そうなるように責任を取るから自分に任せろ、というようなことを言ったそうだ。結果として両者とも切腹したという記録が残るのだが、残念ながら本書には「諍い」の詳細については書かれていなかった。『かたき討ち』の巻末を見ると『校合雑記』は国立公文書館蔵とあって、おそらく漢文体あたりで記された古文書そのものみたいなので、素人の自分が読んでどうなるという資料でもなさそうだ。 福島正則といえば豊臣秀吉の重臣だが、石田三成と仲が悪く、秀吉の没後は徳川勢になっている。だが、家康没後の徳川将軍家の支配についてはあまり快く思っていなかったようだ。家康の死から一年間で実施された日光東照宮創建であるとか、その他の徳川家に関する普請というのは諸大名の経済力を削ぐとともに徳川家への忠誠を値踏みされるようなものであったらしく、古参の武将にはいくらか屈辱的な面もあったのだろう。 江戸幕府の成立後、御三家のひとつ尾張藩の居城である名古屋城の普請が行われていたが、その進行を早めるための増援として福島正則が関わり、その下で山城忠久も奉行を務めたという記録もあるようだ。この頃から正則と忠久は昵懇だったのかもしれないし、あるいはそれ以前の大坂城攻めあたりから縁があったのかもしれない。 こちらに次のような話が書かれていた。 『徳川実紀』には当時の逸話として、福島正則が将軍秀忠の住まう江戸城や大御所家康の居城駿府城の普請ならまだしも、その庶子である名古屋城まで相次いで天下普請を行うこと対する不満を家康の聟(むこ)である池田輝政に零(こぼ)している。内容の真偽はわからないが、当時の西国北国大名が幕府によって警戒され、忠誠を試されていた立場が伺える。 慶長15年というのは東照宮が創建された元和3年から見て7年前の出来事なので、正則と忠久の中には元和3年の時点で既に積年の鬱屈があったのかもしれない。そういう文脈があって、忠久が元和3年に指し腹によって正盛を間接的に殺している。藤四郎は養子となってから本多姓を名乗っており、本多正純と福島正則の不仲にも遠く通じているらしいのだが、このあたりは調査していない。ただ、正盛の墓碑を現地調査をされた方があり、非常に貴重な資料が最近になってネットに上がっている。 さて、このおどろおどろしい江戸幕府開闢期の話に、日光東照宮陽明門の逆さ柱がどう関連しているのかだが、正直わからない。わからないので、以下、妄想である。 徳川秀忠の命により、かねて家康の遺言した通り日光山へその霊を祀るにあたり、三河勢であり徳川参謀であった本多正信の子、本多正純が指揮を執り、福島正則をはじめとする豊臣ゆかりの大名がこれに従い東照宮の諸建築を普請する。遺言には質素な社を求められていたとはいえ、造営の期間はわずかに数か月。戦国の余韻が残る時代ならではの迅速な建築が想定されたのだろう。 その中で、後水尾天皇から賜った東照大権現の神号を掲げる陽明門も造営される。間もなく完成という段になり、誰かがそこに逆さ柱が混ざっていることを指摘する。大御所の御霊が久能山から運ばれ二代将軍秀忠の参拝も予定される家康公の一周忌が迫る中、今さら陽明門を解体する猶予はない。といって、逆さ柱という不吉なものが東国を守護する東照宮の門に仕込まれるというのは痛恨の極み。 事態を重く見た普請副奉行の本多藤四郎正盛が会議を開くが紛糾、そこで棟梁の中井正清が平謝りの上で頓智を利かせ、完璧は崩壊に通じることから逆さ柱はあえて残した魔除けの欠点としては如何かと進言する。しかし家康公を強く尊敬する本多藤四郎正盛がこれを難詰、未だ豊臣を篤く奉り徳川に遺恨を残す福島殿あたりの差し金ではないかと言って、同席していた山城宮内を激昂させてしまう。 その場は中井正清の案を採用して山城宮内の怒りについては周囲が収めたものの、憤懣やるかたない本多藤四郎は乱暴に退席する間際に誤って山城宮内の顔面に鞘を打ち付けてしまう。こちらも怒りに満ちているのでそれに気付かぬふりをしたまま立ち去ってしまう。すでに激昂を周囲に咎められていた山城宮内はこれを堪えるが、後になり福島正則を訪ねて事の次第を打ち明ける。もとより本多に対しては一物あった福島はこれを受け、山城宮内に指し腹を勧める。宮内もこれを受け、ほどなく腹を切る。 かくして、波乱がありながらも日光山東照宮は無事に完成し、藤堂高虎の差配にて遷座祭は万事滞りなく執り行われる。こののち、幕府は本多正盛に切腹を命じ、正盛はこれを受け自刃。ついに、嘘から出た魔除けの逆さ柱には犠牲となった二柱の魂が入り、誰にも手が付けられなくなる。二人を犠牲にした福島正則もまた災いから完全に逃れることはできず、2年後の元和5年には広島城修理を幕府に無断で実行したかどで秀忠の不興を買い、紆余曲折あって信越高井野藩に改易減封される。 やがて三代将軍家光の世となり、贅を好んだ家光により日光東照宮は、家康の遺言した「小堂」から絢爛豪華な社殿へと改築されることになった。さて、陽明門の「魔除けの逆さ柱」はどうしたものか。今や逆さ柱の魔除け説が嘘であったと知る人は少なく、それを知る人も今さら嘘と言い出すことはできない。かといって、東照大権現の扁額を支える門に逆さ柱を残すのは大工として忍びない。無垢材の木柱が逆さであるから不吉なのであって、石柱であれば問題はないのではないか、それも天地は石切り場から切り出した通りにして、模様を逆さに彫り付ければ、魔除けとしても面目が立つのではないか。 かくて東照宮本宮を飾る新しい陽明門は水も漏らさぬ隙のない細工で埋め尽くされ、欠点のないことがむしろ不吉に感じられるほどの完璧な仕上がりとなった。そしてそれを支える柱の一本には、周囲とは逆さの文様が刻まれ、魔除けの柱の伝説は今も観光ガイドの語り草となって伝わる。そしてそこを訪れた子供が訳も知らずにその話を信じる。おしまい。 さて、後半は完全な妄想となってしまったが、史料調査の能力を持った人が正しく調査すれば、もう少し精緻な物語も浮かび上がってくることだろう。当初の想像では、現場の施工ミスで生まれた逆さ柱を、実務を知る名棟梁が頓智を使って魔除けという言い訳で誤魔化して現場を守ってうまく収めた、という心温まるストーリーを想像していたのだが、まだ戦国の余韻渦巻く権力争いの中で、武将たちの不満と怒りが交錯するいささか血生臭い話になってしまった。 この話も、誰かの手で小説やマンガ、あるいはゲームシナリオなどになったりしないだろうか。私はそこまでの責任は取らないが、代わりにこの話は Excite blog の規約に反しない範囲でパブリックドメインに供したい。間接的にでも誰かが拾ってくれると嬉しい。
by antonin
| 2018-08-11 21:30
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