by antonin
検索
最新の記事
記事ランキング
タグ
雑感(302)
雑談(151) 妄想(126) ニュース(96) 散財(77) web(65) おバカ(59) 検索(54) 親バカ(45) 日本語(41) PC(40) 季節(39) 昔話(35) 信仰(31) 政治経済(29) イベント(27) 言語(25) 音楽(24) 言い訳(22) ビール(15) 以前の記事
最新のコメント
ライフログ
ブログパーツ
ブログジャンル
|
スターウォーズの話なんかも書こうと思っていたら、ディジアナやら杉浦さんやらですっかりどっかへ行ってしまった。あの頃なら旬の話しでもあったのだけれど、まぁ現代の神話であるので、半年や一年経ったところで別段古くならないだろうという気もしている。アテナの持つアイギスが古い防具だからといって、ホメロスの詩を読んで白けることはないのだから。 ---------- 最近、日本語が乱れているとか、そういう話題が目に付く。言葉が時代と共にいくらでも変化するというのは古文の授業で嫌というほど味わっているので、あるいは昔から延々続いてきた話なのかもしれないが、個人的には10年位前に「ら抜き言葉」が槍玉に挙がったあたりからこの話題を意識し始めた。 自分でも「読めるようで読めない漢字」なんて本を買って読んだりして、自分の知識の足りない部分や間違った部分を意識したりしているのだけれど、最近どうも、「正しい日本語」という存在そのものに疑いを持つようになった。「正しい日本語」の問題についてしっかり考えた人はとっくに気付いているのかもしれないが、私は最近ようやくそういう考えに至った。 ら抜き言葉が「誤った日本語」として指摘されたとき、自分の使う言葉について考えてみた。すると、自分でも確かにそういう言葉を使っていた。「見れる」とか「食べれる」などは、100%常にというわけではないものの、確かに使っていた。こういう活用は過去にあまり見られなかったらしく、文法的なルールを破っているという。 確かに「れる」と「られる」の使い分けには一定のルールがあって、一段動詞の「見る」や「食べる」の可能を表すには本来「見られる」や「食べられる」を使わなくてはいけない。しかし、私の感覚では「見られる」では誰かに見られているような気がするし、「食べられる」ではライオンか何かに食べられてしまうような印象を受ける。つまり、受身に思えてしまう。「見れる」が正しくないと急に言われて、かといって「見られる」では違和感を覚えるので、「見ることができる」という意味のことを言うときに仕方なく「見える」と言っていた時期があった。これはこれで意味合いが違うような気もするが、「誤った日本語」よりはマシだと思っていた。 ところが、その後インターネット上でいろいろな人が自説を公開しているのを読んでみて、結局のところ、「正しい日本語」自体が何か想像上の産物なのだと思うようになった。 もちろん、文部(科学)省は教科書に載せられるような正しい日本語を策定し続けているし、少数の例外を除けば、日本人はその「正しい日本語」を使えるように義務教育を受けているはずだ。けれども、自分の母国語というのは学校で全てを学んでくるわけではもちろんなくて、身の回りの人々の言葉を聞いて自然に身につける部分が大きい。学校で習うべきは読み書きの類いであって、学校に入って初めて言葉が話せるようになったという人はなかなかいない。 そういう話し言葉は国家によって規定されているわけではなくて、NHKの研究所で研究などはされていても、明確な標準があるわけではない。言葉は通じて初めて意味を持つ一方で、1億2千万全ての日本人が全て同じ言葉を使っているわけではない。方言というのは当然あるし、ある職種で使われる言葉遣いや、あるいは家庭ごとに独特の言葉もある。思春期くらいの気の知れた仲間が集まって、何か独自の隠語を話さないなんてことが果たしてあるものか想像がつかない。 人が使っている言葉などというのは、単純な思い違いも含めて、皆それぞれに違うなんていうことは当たり前のように思う。ところが、人は自分が日本語について完璧な知識を持っていないということを知っている一方で、誰もが自分の使っている言葉の感覚的な正しさを確信している。文章を書くときならいざ知らず、母国語を話すときに文法的に考えながら話す人は少なく、自然に口をついて出てくる言葉で話している。そこに明らかな間違いがあるとわかれば直すけれども、間違っているのではなくて、単に「あなたの言葉と違う」だけであれば、それを敢えて直す必要はないのではないかと思う。 「ら抜き言葉」問題が騒がれだした以前に、こういう問題が話題に上るということがどれほどあったのか私は知らないが、想像するに今ほど問題ではなかったのではないかという気がしている。昔は方言も今より色濃く残っていたし、自分の住む地方以外の言葉を聞く機会はテレビのニュースくらいで、そこで使われる日本語はある種、アナウンサーの業界言葉という位置づけではなかったか。昔の車掌やバスガイドは独特の発声・節回しをしていたが、それは特別な状況でのみ使われる言葉で、日常会話の言葉と同列に扱われることはなかったように思う。 ところがここ20年くらい、そうした方言や業界言葉が目立って使われる機会はずっと少なくなり、いわゆる標準語を誰でもどこでもいつでも使うようになった。放送網の力か、交通網の力か、あるいはその両方なのだろうが、地方の色はどんどん薄くなり、日本全土が地球の中の一地方になり始めた。 言葉に限らないのだけれど、互いに似ているものというのは、より小さな違いが目立つようになる。ほとんど共通化したと思われる日本語でも、実は地方や年代や職業などによって言葉に細かい違いがある。その中には論理的に明らかに間違いといえる言葉もあるけれども、例えば自分の使っている言葉でも、完全無欠ではないはずだ。日本語など特に、論理よりも情緒を重んじて全てを言葉に表さない奥ゆかしい言語だから、形式的にはおかしい言葉もたくさん含まれている。 自分と違う言葉を聞いて、おかしいな、と思う場面はあっても、常識的な推論を働かせれば全く通じないということはない。それでもその違いが一定以上の不快感となって現れるのは、世代や出身地の違いによって話す言葉が違うことが原因なのではなくて、むしろ、誰もが似たような言葉を使うようになったからだろうと思う。見るからに日本人ではないというような人が、かなりおかしな日本語を話していたとしても、それを咎める人は少ない。 「千円からお預かりします」とか「ハンバーグでよろしかったでしょうか」などというマニュアル言葉に不快感を示す人の感受性は素晴らしいと思うし、私にもある程度理解できる部分ではあるのだが、そこはマニュアルを制定した人の出身地で最も適切な言葉が全国チェーンに乗っただけかもしれないし、一般論で言えばそうした言葉の揺らぎにはもっと寛容でもいいような気がしている。 日本語がどんどん共通化していって、そして些細な違いが強調されていく傾向は、これからもしばらく続くと思う。近いからこその違和感、異物感。さらりと受け流していけるといいのだけれど。 話は変わるけれども、ナチスの紋章がキリスト教の象徴である十字の一種であったこと、そのナチスに迫害されたユダヤ教がかつて救世主イエスを生み、そして旧約聖書という聖典をキリスト教と共有していること、そしてキリスト教徒ともユダヤ教徒とも世代を超えた争いをしているイスラム教徒が、やはり彼らと同じ神を奉じていることを初めて知ったときには強い衝撃を受けた。近いがための諍いというものには、よく目を向けて、また一歩遠くから眺めたりしなければいけないのだろう。 参考:"Tack'ns"より「解散宣言・『正しい日本語を守る会』」
by antonin
| 2005-08-03 01:30
|
Trackback
|
Comments(4)
Commented
by
▽・(◎◎)・▽◎
at 2005-08-04 20:31
x
ふぁぜろ・まにある
「おかくはん、はんばーく あつあつ きまひた~、あちち」 「。。。」 「まだ、てっぱん あついよってに きいつけて たべとくなはれ」 「。。。」 「この ちーさいほーの はんばーくわ おまけれふ」 「。。。」 「ごはん おかわり でけますよってに、 なんぼでも ゆーてくなはい」 「。。。」 「ばんど ゆるめると らくちん なるありまふ」 「。。。」 「あいい、まいど おおきにー、せんえん いたらきまふ」 「。。。」 「また おこしやす まってまふ」
0
Commented
by
antonin at 2005-08-04 23:38
Commented
by
ble_n_dy at 2005-08-07 00:28
ら抜き、、してます。他にもいっぱい・・・いいかげんな日本語つかってます。(ほら、い抜きw)
今日、綺麗な日本語で、わかりやすい文章で、読んだあと考えさせられる本の大切さを実感。 またまた、あんとんさんに賛成!流していければいいのですが、気になることは、どうしても気になりますよね。 ぶれの上司は、面接書類に「時間ピッタシ!」と書いていた。これ、本社に送った書類のコピーですよ・・・。溜息。
Commented
by
antonin at 2005-08-08 01:36
なんというか、接客や面接の最中でもなければ、話し言葉なんて
すごくテキトーなものだと思うんですけどね、本来。 まぁ、業務書類に「ピッタシ」はイカガナモノカとは思いますが。w 社内メールで業務上やむをえず「小職」なんて書くときがありますが、 正直な話「ダレ?ソレ」と思いながら書いています。
|
ファン申請 |
||