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連休といっても普通の週末と特に変わりは無く、子供の相手でほとんどの時間は過ぎ去っていくという気はしているのだけれども、そうは言ってもさすがに4連休となるとそれなりに時間配分の自由度は増すので、趣味の「思考」にもいくらか時間を割り振ることができる。今日はヨメの学生時代の友達が来てくれてコドモたちも楽しそうに遊んでいたので、ムスコは早々に寝てしまったしムスメは落ち着いてテレビを見ている。 というわけで「分裂勘違い君劇場」の古い記事なんかを読んでいる。この人の思考はさすがに同時代的な視点にあるだけあって、私の思考パターンにとって親和性が高い。彼は「アルファブロガー」であって、その言論の質の高さに見合うだけの経歴を持っているらしく、こちらとしては「いい仕事してますねぇ(古)」くらいしか言えない。それでも多少の意見の相違くらいは当然あって、大同の中の小異を論じるというのはとても快適なので、少しそれで遊んでみようと思う。 対象はこちら。 「意識の謎を解いてみました - 分裂勘違い君劇場」 いわゆる「クオリア問題」とか「意識のハードプロブレム」という課題についての考察で、それは問題を論じることそのものよりも、図を使って「クオリア問題を説く」というプレゼンテーションを試みているように見える。とはいえそこに彼の考察が記されているであろうことは確からしいので、それを対象に別の見方を提示してみる。もちろん私は彼ほどプレゼンテーションスキルが高くないから、読んでいている人は面白くないだろうが、それはそれでいい。 さて、昨日の(というより今日未明の)記事の論を引けば、対象となる記事の意識と科学的思考の関係は「彼の意識に対する最適な解」ではあろうと思うのだけれども、私はもう少しガチガチに科学を信奉しているし、より唯物論的なので、別の最適解を持っている、ということになる。 彼の議論は途中まで比較的緻密に進むのだけれども、最後が簡単に終わりすぎている。デカ文字で、以上の議論により結論はこうなるんだという締め方をしているが、その段に推論の大きな穴が明いているように(私には)見える。前半では、脳のニューロンモデルやコンピュータプログラミングのオブジェクト指向分析などを援用して、「ここまでは異論がないですよね」という論を展開していて、その限りにおいては私も異論がない。 しかし、デカ文字で結論を出す段になると、それは彼の信じる結論が直接出ているだけで、それまでの議論との間に大きな断絶がある(ように私には感じられる)。彼の頭の中にはその断絶を埋めるだけの経験的な接続があり、そうした断絶が感じられず、むしろ断絶がないと考えたほうがいいのだろうと思われる。ただ、私の理解する「科学的思考」と彼の理解する「科学的思考」に違いがあるために、彼の認識体系ではこの結論の手前に断絶がないのだが、私には断絶があるように見える。 彼は基本的に哲学肌の人間なので、科学的思考というのは「思考」のみを指すと考えているのだろうが、彼の良質の言論の多くが彼自身の社会体験と人間観察に根差しているのと同じように、良質の科学的思考というのは思考のみで成立するものではなく、思考の前提や結論を実験データの蓄積によって証明しようとするのが科学的手法のもう一つの大事な構成要素である。 彼は、一人称的に認識できる意識世界の中での質感(クオリア)をいかに唯物論的な科学的思考で論考しても、クオリアそのものには到達しないという結論を出しているのだけれども、これは観念論的な思考の限界であって、科学的思考、あるいは科学的手法の限界とは異なる。科学的思考の純粋哲学的思考に対するほとんど唯一のアドバンテージは、常に実証実験に耐える覚悟ができている、という点にある。 つまり、脳をニューロンモデルやインパルス伝送ネットワークモデルなどの数理モデルでモデル化したならば、それが本物の脳やそれが実現していると予想している意識の正確に等価なモデルではないにしても、一定の誤差内で近似が可能なモデルであろうという期待を持って科学的思考は対象をモデル化する。 次に、科学的思考は対象を測定し、測定される事象がモデルによってどれだけ正確に説明できるかを繰り返し、さまざまな条件で検証する。そして、知られている範囲内でもっとも精度よく説明が可能なモデルを、その精度の限度内で信用する。より良いモデルが現れたら、観測データを用いて懐疑的に検証し、その検証に耐えるようなモデルであれば従来のモデルに代えて新しいモデルを信用する。アインシュタインは過去のモデルよりも誤差の小さい比熱モデルを提唱し、一時期その理論は物理学界に採用されたが、その後極低温での誤差を大幅に縮小したデバイのモデルが現れ、アインシュタインのモデルよりも優れたモデルとして採用された。 液体ヘリウム温度のような極低温での比熱データの取得が不可能であれば、デバイのモデルとアインシュタインのモデルのどちらが実際の比熱メカニズムに近いのかという比較は不可能であったが、断熱膨張による冷却理論や熱伝導理論を応用した極低温発生技術の発達によって、それらの実測データ取得を可能する装置技術が発達し、その装置によって取得されるデータでモデルを検証することによって、デバイのモデルのほうがより精度の高い比熱モデルであるということが複数の物理学者によって認められるようになった。 しかし、そうは言ってもデバイの比熱モデルが物質世界の「真の姿」と等価なものであるということを哲学的な意味で証明することは、「原理的に不可能」なのである。なのであるが、科学的思考というのはそういう「証明」を予め放棄しており、観測できる事象を近似的に説明できるだけで十分であるという哲学的態度に留まることをその原点としている。ここは思考の限界まで突っ走る純粋哲学と科学的思考の決定的な違いである(と、科学を信奉する者は考えている)。 つまり、この世界の究極の真理というようなものは人間が人間であるうちは不可知なものであり、「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」という態度をとっている。しかし、そのような「証明の放棄」は、弱点であるよりむしろ強みであると科学を信奉する者は考える。つまり、「説明できる」ということは「否定できない」ということに過ぎないのだが、これを逆手に取れば、モデルを否定できない程度の実証データが集まればそれはつまり「説明できた」とみなすことができるのである。 「意識のハードプロブレム」にあっても事態は同様である。同様であるというヒントは今回の批判対象になっている記事にすでに現れている。以下にそれを引用する。 まず、この図の(A)「赤いという感覚それ自体」を記述しているニューロン塊の動的状態があります。 現在はまだ、観測機器の性能の問題から、細かい部分まで直接リアルタイムで見えるわけじゃないですが(太字は引用者による) さて、ここで重要なのは、彼が観測の未熟を軽視していることである。しかし科学を信奉する者は、これを非常に重視する。科学が純粋哲学に対するほとんど唯一のアドバンテージを発揮するのは、観測した事象をモデルによって説明しその精度を検証する機会を得た場合に限られる。 今は銀-塩化銀電極を使った頭部表皮電位測定による脳波波形や、SQUIDなどによる脳細胞の活動度測定、あるいは糖の代謝反応や血流量などを可視化する技術もあるが、現状ではどれも神経細胞の集団に関する情報を取得するだけの「巨視的」な測定であり、神経細胞一つ一つの活動電位を観測しつくしたり、脳細胞間のシナプス結合係数を測定しつくしたトポロジーマップの作成を可能とするような「微視的」な観測技術は確立されていない。 たとえそのような詳細な観測技術が開発されたとしても、科学的思考から生まれたある種のモデルがクオリアそのものを生み出すことはない。ないのだが、幸いなことに哲学的ゾンビではない「意識自身」、つまり不可知な他人の意識ではない自己意識は存在する。意識が「自分の肉体は実在する」と信じるならば、その実在としての脳をリアルタイムで詳細に観測できる。あるクオリアが認識されるということは、哲学的ゾンビではない意識自身であれば普通に「体験」という形で観測できる。そしてそのクオリアの発生と時間的に同期する観測データを積み上げることが可能になる。 そのような観測「体験」を積み重ねるに従い、ある意識モデルが「否定できない」という結論に至ることもあるだろう。その段階で、科学を信奉する人間はそのモデルが観測事象を説明する精度の限度内でモデルを信用する。そのモデルが意識の厳密無比な真実を表すことを、健全な科学的態度は要求しない。そのモデルがクオリアそのものに到達することを予め放棄している。 それは科学の弱点ではなくむしろ強みであると、私は経験的に信奉している。もちろん私は自身の科学的な信念に従い、科学的態度が疑わしく感じるほどに事象を正確に説明する手法があれば、私は科学的手法に代わってそれを受け入れられるという程度にしか科学的手法を信奉していないが、そのような手法はいまだ私の前には提示されていない。 そして、科学的思考が生み出したモデルである程度うまく説明できるような観測事象が繰り返し提示されることで、私の意識はその理論の正当性に対する信用を強化され、次第にそれを疑うことが困難になる。そしてその信用は観測技術の進歩によって既存モデルで説明しきれない観測事象が繰り返し提示されることで再び突き崩され、そこで新しいモデルを求めて科学的な思考が再開される。 つまり、人間が「理解した」とか「解明した」と感じているのは、感情的な働きとしての「納得できた」という状態に至ったかどうかであり、それは「理論で説明できることを認識した」体験と「理論で説明できないことを認識した」という体験の繰り返しによる学習効果である。脳内で理論と観測事象を同時に想起したとき、そこに不快の情動が発生すれば「納得できない」のであり、快の情動が発生すれば「納得できる」のである。そしてそのそれぞれが「信用」と「不信」を強化しながら学習が進むのである。 この体験の予測は、私たちの日常体験の外挿として比喩的に説明が可能だ。 かつて、人間は鏡を持たなかった。鏡のように静かで暗い水面が身近にあった部族ならそれを鏡にして自らの姿を見ただろうが、清く荒い川の流れしか身近に持たない部族であれば、自らの姿を水面に映し見るという体験ができなかっただろう。そういう部族では、全ての人間は自分の顔を知らない。自分の手の形、足の形は知っているが、顔の形は知らない。知りうるのは他人だけで、自己は認識できない。 文明人が彼らの写真を撮って彼らに見せても、彼らは仲間の顔は写真の上に認識できるのに、自分の顔だけは認識できない。そして見知らぬ顔をした人間を指して「こいつは誰だ?」と聞くと、仲間が「これはお前だ」と答える。彼はそれを直ちに信じることができないだろう。しかし、彼に鏡を与え、みんなで代わるがわるその鏡を覗き込み、かつて知らなかったある顔を見るたびに、仲間に「お前の顔だ」と言われるという体験を繰り返すうち、彼は徐々にその顔を「自分の顔」として認識していくだろう。そして最後はそれに疑いを持たなくなり、果てはそれを疑うことが困難になる。 この最終状態では、いくら哲学者が「お前が見ているのはただの鏡であり、いくらまわりがお前の顔だと主張していても、まわりの仲間全てがお前に嘘をついており、それがお前の顔とはまったく別の何かである可能性を消し去ることにはならない」と主張しても、経験による圧倒的な信用体験は哲学者の批判を受け入れることを困難にする。 今の人類は意識のハードプロブレムを前にいろいろな思考実験を繰り広げながらも、観測技術の未熟により、その優劣を評価したり新しいモデルを構築するヒントとするために必要な観測データの不足に悩んでいる段階である。ガリレオが天体望遠鏡で木星や土星の詳細な姿を観測したり、ティコ・ブラーエが望遠鏡無しながらも天体運行の詳細なデータを蓄積する以前の世界における、科学的な天界モデル構築が神学的なそれに対してアドバンテージを発揮できないハードプロブレムであった状態と同じなのである。 どんなに観測事実を積み上げ、それをある程度高い精度で説明する科学的モデルが得られたところで、それはクオリアそのものと哲学的な意味で等価なものではない。しかしながら、私たちが鏡を見るように、クオリアを想起しながら自分自身の脳の詳細な生体電子情報データが参照でき、またそれを説明しうるモデルがあれば、その観測データやモデルがクオリアと等価なものであると「勘違い」してしまうだろう。そして、それは科学にとって十分に価値のある到達点なのである。 あるいはギリシアの哲学者はこう言ったかもしれない。「将来どんなに正確に自分の姿を映す鏡ができたとしても、そこに見えているのはあくまで『虚像』であり、人間の精神は人間の肉体に留まっている限り、自らの『実像』を見ることは原理的に不可能なのである」と。確かにギリシアの哲人は正しい。しかし、それは我われ現代人にとってあまり深刻な問題ではない。 「顔にハナクソが付いてるぞ」と言われたときに、鏡を見てハナクソの存在の有無を確認し、存在する場合にはハナクソと自分の手の相対位置情報を鏡の映像からフィードバックしながら、自分の手をハナクソの位置まで持っていき、最後にそれをつまんで取り除く。そういう「成功体験」を積み上げていくことで当座の自己強化を図りながらも、より強力な理論を求めて観測と科学的思考を果てしなく続けていく。強力な道具としての「鏡」との整合性を維持し続けることが、科学的思考が哲学者の説く真理に勝る唯一の利点であり、健全な科学はそれ以上を語ることを放棄する。 つまり、「意識のハードプロブレム」がハードなプロブレムである要因の最大の部分は、「鏡」に相当する自己観測手段の未発達であると、私は考える。そしてそのような観測手法はいずれ開発されるだろうとの楽観的な観測も持っている。その根拠は、量子スピンの観測問題のように観測が相手の状態を破壊してしまうほどには、生体電子信号は微小なものではないという事実である。 もちろん、意識がその意識自身を作り出している脳の物理状態を観測するということは、観測主体と観測対象が同一なのであり、そこにフィードバックループができてしまうことで変な振動や発散などの制御エラーが発生してしまうというリスクはある。しかし、記録と分析を時間的に切り離すような観測技術などを使えば、この手の問題は比較的簡単に解消可能だろうと予測される。 そして、同じ波長の光を見た人間の脳に、数種類の物理状態が観測事象として対応するならば、その「同じ色」の光に対応するクオリアは「数種類ある」と推論できる。そして、自分自身と同じクオリアを感じている他人の存在を確実に証明することは「原理的に不可能」であるが、「その可能性を否定できない」と言い切れるだけの客観データを蓄積できるかもしれないというのが、科学的思考を拡張した科学的手法の強みであると信じる。 最後にもうひとつだけ付け加えるならば、意識の大事な特長のひとつは、「想起する」ということである。つまり、「昨日の夜は何を食べたっけな?」という意識が生じたならば、その意識が脳に発生することで意識の座である前頭葉辺りにある種の信号が発生し、その信号を入力として脳の別の部分が別の信号を出力する。この信号を前頭葉が受け取ると、それは「鯖の味噌煮を食べた」という映像なり味なりとして「想起」される。 このような「意識の座」とその周辺での動的な情報のやりとりが随時存在しており、それが外界の情報と密に相互作用して書き換えられていることで外界を認識しうるモデルで表現できるというのならば、海や川や大気や真空が意識を持っているとしても、私はそれを否定できない。したがって、最後の荒唐無稽に見える「否定的帰結」は、科学を信奉する者である私にとっては、なんら否定的ではない。 というわけで、今日の「信仰告白」はこれまで。
by antonin
| 2008-05-03 20:28
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