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クリントン大西様からコメントをいただきました。こちらで返信したいと思います。 安敦誌 : 小人論 締めが「家族と友を失ってなお残るものなど、小人としての我々には何もありはしない」という具合になっていて、ここはかなり意図して挑発的な感じにしたという部分もありまして、これについては是非にご容赦のほどを。小人というのは、立派な君子に対する愚者では必ずしもなくて、これは「一般市民」という程度に勝手な解釈をしています。 「立場の棚上げ」という言葉もありましたが、個人的にはこういう考えをこそ偽善と感じます。ただし大西さんもその後に述べられていたとおり、自分の立場をより高い次元で考えたときには、安直に考えた場合に自己の利益にならない「かのように見える」結論が出ることがあります。おそらくこういうものを指して「立場の棚上げ」とおっしゃっているのだと思っています。これは偽善ではなく、より高度な視点に立った自己主張であり、建設的なものであると考えます。「武士は食わねど高楊枝」というのも、蓄財を忌み誉れを尊ぶ武士たらんとする立場に特有のエゴに発していながら、なおかつ近視眼的なエゴに終わらない主張です。 こういう具合ですので、政治家でも経営者でもない、一般個人としての立場に正直になると、「家族と友を失ってなお残るものなど、小人としての私には何もありはしない」という立ち位置を忘れてはならないということになります。ただしそれが、「一家で8万4千円のバラマキ大歓迎、独身涙目w」という結論になるのかというと、必ずしもそうではありません。子供の将来を考える親の立場として、今現在の状況をほんの少し改善するために、この先数十年にわたって禍根を残すようなことはすべきではない、ということもまた、同じ立場から主張することができます。 このあたり、「立場を超えた自分自身の判断をしてみろ」という言説と結論としては逆になってしまっていますが、底に流れている意識としては決して相反するものではないと考えています。ここはご理解いただけると思います。最近こういう面倒な表現が多くて自分でも辟易しますが。 もう一点の主張ですが、宗教と学問の話になります。このあたりを一から説明をするのは難しいので、最後に過去記事への参考リンクをつけて、かなり端折って書こうと思います。 ・「三つ子の魂百まで」ということわざにある「三つ子の魂」とは、遺伝的な因子による性格を指していて、これは教育によって変えることができない。ただしその基底の上に、教育を含めた体験による知識技能を積み上げることができる。 ・多くの人は、自分が興味のある分野以外は理解することができないか、あるいは理解することが非常に難しい。ある分野に興味を持たせるものは、個人的体験以外にない。 ・人間には教育ではどうしようもない得手不得手がある。 ・科学を含めた学問は、世界や人間の仕組みを解明することについては高い能力を持っているが、人間の精神が幸福であるためにはどのようにすればよいかを示唆することについては高い能力を持ち合わせていない。 ・東洋思想を含めた宗教は、人間の精神が幸福であるためにはどのようにすればよいかを示唆することについては高い能力を持っているが、世界や人間の仕組みを解明することについては高い能力を持ち合わせていない。 ・支配者には支配者の、生活者には生活者の、それぞれ固有の立場がある。そうした立場にあることを認識し、その立場に矛盾しない限度内で、できるだけ建設的な(win-winの)結果となる議論をすべき。 私は上記のような基本的理解をしています。以下に、そのあたりについて述べた過去の記事を挙げておきます。どれも面倒な内容なので読んで頂くまでもありませんが、参考まで。 安敦誌 : 個性の話 安敦誌 : 「ルール」と「マナー」と「思いやり」、それから哲学 安敦誌 : 信仰とか 安敦誌 : 聖と俗 安敦誌 : 美とか価値とかそこらへん 今回言わんとしていたことは、「信仰とか」のコメントに凝縮しているので、これを引用しておきます。 奇しくも現代日本の精神思想のありかたがくっきりと現れたわけなんですけれども、科学理論の限界の向こう側にあるもの、つまり物理法則が存在するのはなぜかとか、公理系のさらに前提を論じるような世界では、科学は宗教思想に勝ち目がないんです。実証しようがないんですから。でも、心の問題はもっと身近なものであるはずです。 人間性や社会について学問的にいろいろと吟味した挙句には、ほぼ間違いなく厳しい結論が導かれるわけですが、また同時にそうした厳しさの中だけで生き抜くほどには、人間は強くできていないということも実感します。強くなければ生きていけず、また優しくなければ生きている資格がないという具合なのですが、そうした厳しさと優しさを無矛盾に結びつける力が、科学を含む現代の学問にはまだまだ不足していると感じています。 ですので、日本の現状では慈悲であるとか寛容であるとかを学ぼうとすると、どうしても創造主や祖国の英霊などがセットでもれなく付いてきてしまうわけです。これは、ガチガチの唯物論者である私には耐えられない。でも各種宗教が説く日常道徳の価値は理解している。この状況をどうにかしたいわけですが、まだ解決の糸口さえ見えません。 政治というのも結局、貧民は貧民なりの幸福を見出させて、暴動から国家を守ることが結局国民の利益をも守ることになるというマキャヴェリズムになるんでしょうが、それを直接的に全国民が認識して判断するというのは、ちょっとグロテスクすぎるように思います。もう少し、基本的人権や平和主義といった、政治のグロテスクさを隠蔽するためのアイコンを駆使したほうが、お互い幸せになるのではないかと思っています。ただし、本来グロテスクであるべき権力中枢に、そうしたアイコンを直接に信奉するナイーヴな世代が入ってくるようになると、どうやら国家は崩壊するようです。 プロレスや相撲が八百長だなんて話はどうでもいいんですが、やはり技と技の真剣勝負を演じ続けて欲しい、庶民はいつまでも上手に騙されていたい存在なんじゃないかと思います。民主政治も結局のところそうした「興行」の延長線上にあって、国民が真に求めているのは実のところ「千両役者」なのではないかという考えに流れつつあります。ノーサイドと共に対立政党へエールを送るといった程度の演技力は、日本の衆院議員も米国の上院議員たちを是非に見習って欲しいと思います。 戦前の修身の教科書などをネットで拾い読みすると、これが大変に良く出来ていて、とにかくスメラミコトに帰依しましょうという部分を除けば、あとは日常で何に気をつけていればより良く生きられるかというあたりが、大変簡潔にまとめられています。こういうものが、哲学的探求に向いていない人でも、哲学的極みから生み出された具体的な生き方を簡単に学べて、なおかつ大きく失敗しないという教育の例なのだと感じています。もちろん指導者層はもっとしっかりと自分の頭で考えて、グロテスクな実像にも慣れるべきだと思いますが。 せめて、子供達に恥ずかしくない大人をこれからも(できれば)やせ我慢しつつも演じ続けたい・・・そう願うのみです。 つまりは、そういうことです。ツッコミどころがあれば引き続きご指摘ください。
by antonin
| 2008-12-08 00:55
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