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頭が痛い。相変わらず退屈。 -- ブラック・スワンの上下巻をようやく読み終えた。途中で翻訳の質を疑ってみたりもしたが、結論としては原文の段階で結構支離滅裂なのだろうと思うようになった。著者あとがきで、当初ゴチャゴチャで読めたものではなかったものを、時には人に逆順に読んでもらったりもしながら形にまとめ上げたものだと書いてあった。著者は私と同じで「温度が高い」思考をする人なのだろう。温度の高い思考は局所解から抜け出しやすいが、その分間違いも犯しやすい。「創造的間違い」が得意な人種なのだろう。あれでは温度の低い思考をする人の反感を買うのも仕方がない。同類の私でさえ随所にツッコミネタを発見したくらいなのだから。しかも口が悪い。 -- 福島第一原発3号機の爆発について、ずっと疑問に感じていたのが、あの爆発直後の火球とその収縮だった。陰謀論ファンとしては240Puの不完全核爆発を隠しているのだと期待していたのだが、どうやら本当に水素爆発だったようだ。最上階ではなく地下のほうに起爆点があって、なおかつ水素濃度が十分に高かったために、非常に高温で爆発したものらしい。 火球ができて次に収縮するのは気体膨張の原因がもっぱら熱による証拠で、それは急激な核反応が熱源だからではないかと疑ったのだが、考えてみれば水素の燃焼も 2H2 + O2 → 2H2O となって3分子から2分子へと分子数が減少してしまう反応だから、反応が高速で膨大な熱量があれば火球になるし、その熱が電磁放射などで拡散すれば収縮もする。見慣れないものだが火薬の爆発などとは基本性質が異なり、核反応ではなく化学反応だとしても映像の現象に妥当な説明がつく。 事故として事前の想像を絶する状況だったということには変わりはないものの、発表資料で説明がつかないようなものではなかった。世界各地の放射性粒子観測網が完全に口裏合わせすることも無理な話で、この件では陰謀論は退けられた。残念。 -- 図書館でいまどきの遺伝学の基本が書かれた本を借りてきたが、読む気力があるかわからない。Rust言語に trait という用語が出てくるが、これが「形質」と訳される語だとわかってすっきりした。そういえば先日、遺伝子の「優性」「劣性」という用語が「顕性」「潜性」に改められるというニュースを知ったが、良いことだと思う。今なら無理に漢訳しなくても dominant と recessive を教えておけばいいじゃないか、という気もするが。 -- 最近また記憶がちょくちょく飛ぶ。どうしたものだろう。 ■
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by antonin
| 2017-09-25 23:40
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ブラック・スワンの上巻を読み終えて下巻に入ったが、どうも面白くない。日本語で読んでいるのだが、いまひとつ翻訳が信用できない。2006年脱稿、2009年翻訳出版の古典を図書館で借りてきて文句を言う身分でもなく、原書の発行に際して15ヶ月の遅れが生じたという高度な書籍を僅かな期間で翻訳完了した偉業に疑う余地はないのだが、それでも日本語で書かれた内容には信用できない部分が多々ある。初版初刷なので仕方がないが、改版はないので今もそれほど大きな改定はなされていないのだろう。原書で読めと言われても困る分量なのでどうしようもない。 下巻の冒頭でも、二体問題では解析的に安定だが三体問題では不安定になるというポアンカレの指摘が、三体問題では安定だが四体問題では不安定になるという意味の内容に訳出されている。万有引力の法則で運動する太陽と惑星の二者関係であれば軌道は安定するが、そこにもう一つの天体が加わるとカオティックな三体問題になる。それが訳書では、太陽系に2個の惑星しかないなら安定で、そこに彗星が加わると三体問題になるとある。原書が間違っているか、訳が間違っているかのどちらかだ。 ポアンカレに心酔しているという著者がそんな初歩的な間違いを犯したとも考えにくいので、訳者と訳編者にとって物理学があまり親しくない分野だったのだと思う。おそらく、「太陽系に惑星が二つしかなく」というのは「系に太陽と惑星の二つしかなく」という意味なのだと思う。「二つの質点からなるシステム」という予備知識がないと訳しにくい部分ではある。話の大筋には影響がないのだが、こういう、読んでいて不安になる文章が定期的に表れる。 自分には信念があっても、周りからの評価が長く得られないときに自己評価を保ち続けるのは難しく、そうしているうちにコルチゾールに海馬がやられて記憶力が落ちて滅入る、という話が半分フィクションとなって上巻に一節挟まれていたのだが、その部分は心に染みた。それ以外の、実践に縁遠い統計学者や経済学者への苦言の羅列は、繰り言のようでくどい。これも海馬に損傷を受けた後遺症なのか。あるいは「ブルックリン的」な英文に対する和訳文体に胸焼けを起こしただけなのか。 下巻では正気を取り戻したのか、理論と実践の具体的なズレを例証するような内容が増えてきて、少しずつ興味深い内容にはなってきている。補間式によるデータ欠落部の内挿や、代表値の値域における近似関係式の導出にはそれほど大きな間違いは起こりにくいが、その数式に依った外挿はたいてい失敗するというのは、実験科学を経験した人なら身にしみてわかる話だと思う。これが、教科書で習った天下りの数式しか知らない人にはなかなか通じない。内挿と外挿の信頼度は天と地ほども違う。そのわかりやすい例として、同じ数式が描くグラフでも値域を変えると様相が全く違ったものになるという、私もここで何度か書こうとしていた話が本書の下巻に出ていた。私と同じような苛立ちを著者も持っていたのだろう。 経済の専門家を批判する本書の翻訳を、経済の専門家に依頼したのはどういう意地悪なんだという気はするが、当時は「経済分野のベストセラーをいち早く翻訳せよ」という指令しかなかったのだろうから、仕方がなかった面もあるのだろう。誠実になされた仕事を腐すのは良くない。仕事と生活の合間に原書でこういう本を読めない自分を呪いつつ、母国語でこの本を読める幸せに感謝したい。 ■
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by antonin
| 2017-09-11 01:34
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モンティ・ホール問題を最初に知った時には面白いと思ったが、突き詰めると、確率論という学問が暗黙のうちに置いている仮定と、モンティ・ホールの出ているテレビショーを見たことがある人が持つ体験的な仮定、というあたりに違いがあってもめているだけだと気付き、意外につまらない話だとも思った。 開く扉の枚数を増やしてみるという説明もあったが、もっと単純にするとこういう問題になるんじゃないだろうか。 「ジョーカーも含めて53枚のトランプを切ります。次に、その1枚を箱に入れました。この箱の中にハートのエースが入っている確率はいくらでしょう。」 「53分の1です。」 「そうですね。では、箱を開けてみましょう。スペードの9が入っていました。次に、このまま箱を閉めます。この箱の中にハートのエースが入っている確率はいくらでしょう。」 ここで「0です」と答えるならベイジアンだし、「53分の1です」と答えれば頻度主義だ。どちらも正しく、どちらかが間違っているという話ではない。単に前提が異なる。「確率」に the が付いていると考えるか a が付いていると考えるかという前提の違いであって、その前提があいまいなまま、どちらが正しいかを議論するのは間違っている。 「確率」には a が付いていると考えるなら、たった1回の試行でどんなカードが出たところで最初の問いに関する一般的な答えは53分の1のまま変わらない。ところが the の付いた「その試行」に関する確率と考えるなら、私はもうそこに入っているのがスペードの9であってハートのエースではないことを知っているから、答えはゼロだ。 the が付く方の、ベイジアンの問題だと考えた場合、実は話がより面倒になる。上の会話の場面で私がマジックショーに参加しているのであれば、次に箱を開けた時には中からハートのエースが出てくることは十分に考えられるので、そういう予測も織り込めば確率は0ではなくなる。また、最初に箱を開けて中身を確認する前でも、使っているカードセットのうちハートのエースのカードが微妙に折れていることを知っていて、箱に入れてカードが折れていない気がしたなら、確率は53分の1より下がってゼロに近づく。 こういう、未知の対象について何も知らない状態から、ある程度推定できる知識がある状態、あるいは完全に知っている状態に変化するために必要な知識の量を、通信工学では情報量と呼ぶ。それはベイズの定理と同じ事前確率と事後確率を使った情報量エントロピーとして定義が確立している。この情報量の式を見てエントロピーという名前を付けるようにアドバイスしたのがフォン ノイマンだという噂もあるくらいで、それは1940年代の話だ。 工学の外側にいる統計学の研究者の中には、1990年になっても頻度主義の前提をベイジアンの問題にも適用しようとするくらい、暗黙の仮定に慣れきった人がいたという話なのだろう。アベノミクス前夜のリフレ論者がリフレ理論を理解しない人たちを馬鹿にして罵っていたときも似たような違和感を覚えた。欧米経済中心の研究から帰納的に抽出した一般的な数式から演繹して、日本経済での個別具体的な状況で量的緩和が足りていないと言いきっていた人たちも、似たように統計学の前提となっている暗黙のルールの虜だったのだろう。 リフレ論者とそれ以外の人たちの言い合いは不愉快だったが、話がすれ違った理由を考えるのはそれなりに楽しい。古典的な命題論理の問題でも日常言語で議論すると変な話になる、という別の文章を書きかけたのだが、コドモと町内会の行事に参加する予定があって書き上げられなかった。そちらはまた今度。YouTubeで禿山の一夜を聴いた話も、その気が残っていればまた今度。日常に退屈している。その話もまたそのうち。 ■
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by antonin
| 2017-09-03 02:36
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