by antonin
検索
最新の記事
記事ランキング
タグ
雑感(302)
雑談(151) 妄想(126) ニュース(96) 散財(77) web(65) おバカ(59) 検索(54) 親バカ(45) 日本語(41) PC(40) 季節(39) 昔話(35) 信仰(31) 政治経済(29) イベント(27) 言語(25) 音楽(24) 言い訳(22) ビール(15) 以前の記事
最新のコメント
ライフログ
ブログパーツ
ブログジャンル
|
私ももちろん現代人ですよ。 直接には聞いた事がないのだけれども、結婚式後の宴席で、お年寄りがまだ高砂を披露していたなどという時代には、人気のスピーチとして「3つの袋の話」というようなものが流行していたという。あれは本当なのだろうか。 曰く。世の中には3つの大切な袋がございます。ひとつは給料袋です。一家の主人となられるご新郎が稼いでくる給料袋には、ご主人の血と汗と涙が沁みこんでいます。奥様となられるご新婦はぜひ、この給料袋を大切に思い、上手にお金を使うよう努めてください。もうひとつの大切な袋は、おふくろ様です。あなた方を産んでくれたお母様をぜひとも大切になさってください。また、ご新婦がめでたくお母様になられた暁には、ご新郎はぜひに奥様をいたわって頂きたいと存じます。 残るひとつは、堪忍袋です。今は惹かれあう若いお二人も、いずれは老いていきます。その歳月の中では、いろいろと腹の立つようなこともございましょう。けれどもそこでお二人には、ぜひとも堪忍袋のありがたみを思い出していただきたいと存じます。不品行に見える旦那の振る舞いも、雑に見える女房の振る舞いも、きっとその影には大変な苦労があるに違いありません。そんな苦労を思い遣り、ぜひとも文句は堪忍袋にしまってやって、お二人とも末永くお幸せに暮らして下さいませ。といった具合。 ただし仏の顔も三度まで、仏ならぬ人の堪忍袋には自ずと限度というものがあり、堪忍袋の口を縛るひも、堪忍袋の緒が切れるという事態が度々発生する。これを指して、「あぁ、奴さん切れやがったね」などと言う。ひもが切れるにあたって音がするならば、「プッツン」と称すだろう。あるいはもっと激しく「ブチ切れる」かもしれない。なかなか表現豊かである。 平生ブチ切れる人の多い世の中ではあるけれども、ほとほと堪忍袋の中に溜め込んだものが多すぎるのではないかという辺りに思い遣って、彼の不平を自らの堪忍袋に預かるほどの器があれば仏への道も近いのだろうけれども、なかなかそうした人というのは少なくて、世の中はまだまだ因果の輪廻を回し続けていくのだろう。 #
by antonin
| 2008-09-21 06:34
|
Trackback
|
Comments(0)
「素晴らしき日本語の世界」と題した、文藝春秋SPECIALという季刊本にだいたい目を通し終えた。これは文筆業という狭い社会の中で閉じた生き方をしてきた人々の随筆集であるので、だいたいは壺中の天の快適さを語りながら「なぜ誰もこの壺の中に入ってこないのだろう、嘆かわしい」と言っているような意見ばかりであり、面白くなかった。それでも壺の外から日本語の性質を語る人の意見をしっかりと混ぜ込んでいるあたりの誠意が、文藝春秋という会社の優れた特質なのだろう。 狭い世界の中にある人が語る言葉に向かって、視野が狭いと嘆く狭量もまた不甲斐ないのだけれども、どうしても我が身の未熟で愚痴が出てしまう。次のような文章でこの巻が締めくくられていて、どうにも我慢がならない。 しかし、女子バレー会場に処女なき有様を、どうしたらよかろうか。 もうこれは、セクハラとしか言いようがない明らかに悪い言い草なのだけれども、こういう言葉がたいした悪意もないところから出てしまうというのは、やはりその視野の狭さによるものだと思う。 結局何に基づいてこの人が「処女なき」と言っているかというと、女子バレーボールの日本代表チームを応援する少女たちが、日本チームによるポイント奪取の際に「やったー」と叫ぶのが気に食わないのだという。それも、「やった」が「セックスをした」に聞こえてしょうがないのだという。もう、こういう人がジャーナリストを自称しているとなると、私のような人間でさえ日本語の貧弱さについて嘆かなくてはならなくなってしまう。全く勘弁して欲しい。 だいたい、言語というものは自由でいい。だから、この人がジャーナリストを名乗ってもいいし、「やった」が「セックスをした」に聞こえても、それはそれでいい。けれども、一応私の意見も述べておきたい。もちろん言語や言論というのは自由でいいので、この意見を無視したりこの意見に反論したりする自由は万民に開かれている。どうせこんな場末の意見に反論もないだろうから、どうでもいいのだけれども。 そも、性交したという事実を指して「やった」とか「した」とか「いたした」というのは、木を森に隠す行為だというのは明らかだろう。「やった」も「した」も「いたした」も、英語で言うところの"did"に相当する動詞であって、何を指すともなく一般的に使う言葉である。その一般的な言葉を使い、明に言うに憚られることを暗に語る言葉が「やった」であるということは、ほんの少しでも頭をめぐらせればすぐにわかることだろう。 「やる」を辞書で引けば、14種類もの多様な意味合いが載っている。当たり前である。「やる」というのは、特定の動詞を持たないような一般的な行為をすべて背負っているような、多様な使われ方をする一般動詞なのである。この多様な意味をすべて無視して、「『やる』『やった』は男女間の性行為を意味し、女はもちろん男でさえ、ユメにも口にしてはならない日本語だったからである」とくる。本末転倒もいいところである。 「性行為」などという下品で芸がなくてどぎつい医療用語を日常会話の中で口にすることを憚って、あえて無色な言葉を借りて「やる」と言う奥ゆかしさが、この人には理解できていないのである。「まぐわい」という言葉でさえ、視線を交わすというのが本来的な意味であって、こういう無難な言葉に不躾な内容を託すのが、日本人の奥ゆかしさであったはずである。それがこの人には理解できていないのである。 こうした誤解はすべて単なる無知や言葉の貧困に因るものであって、このような人がジャーナリストを名乗ることが許されているということ自体が、日本のジャーナリズムの貧困ぶりを体現しているなどと言ったら、辛辣に過ぎるだろうか。やはりこういう困ったことを言う人はごく一部の例外であって、平均的なジャーナリストは正常な感覚に基づいて誠実に日々の仕事を遂行しているのだと信じたい。 救いはこの人自身が引用するように、「そういう小言は、たいてい俺の子供のとき俺の家ではそういう言い方はしなかったという程度の根拠でしかないもんですよ」という山本夏彦さんの言葉が存在するということだろう。こういうことを言える人の存在が、日本も大丈夫と言える根拠になる。山本さんは他界されているが、この人と同じだけの視野の広がりを持った人の意見も、この本には劣勢ながらも見られる。これが救いである。 そしてこういう批判は、批判を批判と思わせないような婉曲でじくじくとして嫌味な表現をするか、あるいは鋭利な一言で斬って済ませるのが日本の伝統であるので、そういう芸を持たない私のような人間は、まだまだ日本人として未熟なのである。 私自身は山本夏彦さんの文章を直接に読んだことがないのだけれども、私の学生時代の書き物を読んで、山本夏彦さんの書くものに似ていると言う人がいた。他に読むべき本と読みたい本が山と積まれているので山本さんの随筆に回す時間が足りないが、山本さんという人が一体どのような文章を書いていたのだろうかということは、少しだけ気になっている。 #
by antonin
| 2008-09-21 04:23
|
Trackback
|
Comments(5)
大学生だった頃、初めて買って読んだ岩波文庫の本のタイトルがそんなものであった記憶がある。もしかすると、英語の授業でテキストとされていた"Pragmatism"の和訳を覗き見るために買った「プラグマティズム」のほうだったかもしれない。これを読んで、英語が難しいから理解できないと思っていた文章が、実は日本語に訳してみたところで、結局さっぱりわからないのだということがわかった。 しかしそんな難解な本の中でも、その冒頭の話題は印象に残った。切り株の横にリスがいる。その反対側に人がいる。人がリスのほうへ行こうとすると、リスは逃げてまた反対側へ回る。そういう状況のとき、リスは切り株の周りを回っているのか、それとも人間の周りを回っているのか。果たしてどちらなのだろう、という侃侃諤諤の議論を繰り広げている哲学者たちがいる。それを見てプラグマティストが一言で切りつける。「それは回るという言葉の定義の問題だ」 この痛快さが気に入った。議論を始めるにあたっては、まず用語の定義など、議論の前提を統一して、同じ土俵に上がるという手続きから入らなくてはならない。そして、どの土俵に上がるのかということを決定するに当たっては、議論によってどのような問題をどのような方向へと解決するのかという、当事者の意識を整理して統一する手続きから入らなくてはならない。その実務的な考え方に痺れた。 もちろん、こういう考え方に痺れるための土台として、そもそも果てしない議論になりがちな問題が気になってしまうという前提がある。そもそもそういう議論自体に興味がない人にとっては、おそらくプラグマティズムの切れ味もこれといった役には立たないだろう。しかし、水のように流れて落ち着かない議論に疲れると、このプラグマティズムという妙薬の苦味と効き目に惹かれる。 そんな入り口があって、いくつかの哲学書を(和訳で)読もうとして、図書館でいくつか有名な本を漁り、例えば「純粋理性批判」のページなどをパラパラと繰ってみたのだけれども、何を言っているのかさっぱりわからなかった。プラグマティズム以上にわからない。これを読むだけ時間の無駄だと思い、別の本を探した。 「背教者ユリアヌス」という本を高校2年の夏休みに読んだことがあって、この物語のせいで古代ローマ側から見たキリスト教会の気味の悪さというものを植えつけられてしまい、その後にずいぶんと自身の偏見に苦しんだ記憶がある。塩野七生さんなどはこの感覚をしばしば文章の上に載せてくるのだけれども、今ではいくらか自然にキリスト教やイスラム教などの一神教に接することができるようになったと思う。 それはさておき、この本の主人公であるフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスという人は、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認してからテオドシウス帝がキリスト教を国教化するまでの狭間に誕生した、最後のローマ人らしいローマ皇帝だとされるようだ。「ローマ人の物語」のほうではまだユリアヌスの代まで読み進めていないので詳しくはわからないが、この人はマルクス・アウレリウス・アントニヌスに似た、ギリシャ人の下で哲学を修めた哲人皇帝であったらしい。 小説の中で、このユリアヌスが少年時代に小脇に抱えていた羊皮紙製本(コデックス)の書物が、マルクス・アウレリウス帝の自書であり、古代ギリシャの哲学書ということになっていた。そこで私は、図書館に収蔵されていたプラトンの対話編などをいくつかめくってみた。そこにあるのは確かに世の中の本質に迫る議論ではあったが、基本的におじさんと少年の会話文なのである。それは極めて読みやすかった。 次いで、当時はまだ書店に並んでいた「饒舌について」という本を買ってみた。そこにはプルタルコスという理屈っぽいおじさんの文句がひたすら垂れ流されていて、読んでいて楽しかった。人間の饒舌、つまり多弁すぎることの害を、実に饒舌に語っている本だった。プルタルコスという人は本来、ローマ史とギリシャ史を並列して学ぶための基礎とされた「対比列伝」という書物を書き残した人として有名だったらしい。 この本は日本では伝統的に「プルターク英雄伝」と訳された。プルタークとは、プラトンをプラトーと呼ぶのと同じで、プルタルコスを英語読みしたものだという。英語ではアリストテレスはアーリスタートルだし、プトレマイオスはタレミーというような音になってしまうので、こういう読み方を多用した時代の訳文には、ギリシャ人の名前はギリシャ語で発音すべしという原音主義で教育を受けてきた世代には少し面食らう人名表記が多い。しかしどういうわけか、論理幾何学の祖であるエウクレイデスだけは、今でも英語読みしたユークリッドのほうが通用する。 そしてそのプルタルコスによれば、饒舌というのは百害あって一利のないものであるという。言葉の多い人間というものは他人の言葉については左の耳から右の耳に抜けていくのだという。その饒舌というものは割れた甕から水が漏れるようなもので、人の知恵を表すものでは全くないのだという。饒舌の害を説くプルタルコスが実に饒舌なのは楽しい。言葉であれこれ言う奴は良くないが、静かに文章をしたためるならば良いのかもしれない。 古代の中国には孔子という人がいて、「子」というのは立派な人を表す尊称であるから、「孔先生」というような意味になる。孔先生の下の名前は丘という。仲尼というあざなもあるので、孔丘仲尼という人を歴史上特に敬って孔子と呼ぶ。ただこの人は、ソクラテスと似て弟子と交わした多くの対話文を残しているが、あまり重要な役職には就いた経験はないらしい。 孔子はたくさんの立派な言葉を残し多くの弟子に慕われたが、役人として政治に参加するという孔先生本人の希望はかなわず、浪人として弟子を取って政治学を教える私塾のようなものを開いていた人らしい。そして大量の言葉が残された。言葉というものは強力なものである。旧約聖書、新約聖書、クルアーン。場合によってはタルムード、マハーバーラタ、大蔵経。そのように残された言葉は、人々に読まれ、永遠に再評価を受け続ける。これら聖典の言葉は、時代が過ぎても誰かが顧みて再び読み返される。 どのような宗教的な聖典にしても、諸子百家の言葉が乱舞した時代の経典にしても、書かれていることは右も左も赤も青もいろいろとあるが、とにかくよくよく読めば素晴らしいことが書かれている。一見ひどいことを言っているようでも、更にひどい現実に揉まれるうちにその本質の素晴らしさに気づかされることが度々ある。また、そうした素晴らしさを持たない文書は古代にも大量にあったはずだが、そういうものは誰にも顧みられることなく、したがって現代には伝わっていない。そういう経代の試練を越えてきた言葉が古典というものである。 一方で現実を見回すと、立派なことを言う人が、必ずしも立派には振舞わないということを目にする。また一方で、特に何も言わず、特にわかったようなところを見せない人が、実に立派な振る舞いを見せることがある。千年の未来まで轟く言葉を残す偉人は、実に声の大きい饒舌家であるが、一方で現実世界を支えているのは、いつも物言わぬ実務家である。 それで饒舌家にその価値が無いのかといえばもちろんそんなことはなく、物言わぬ実務家ほど古典を読み親しんでいたり、あるいは古典を読み親しんでいた人の薫陶を受けて育ったりしている。古代の饒舌家の言葉には確かな力がある。ただし現実世界にあっては、立派なことを言う人よりも、物言わぬ人の抑制された仕事のほうが素晴らしい成果を現す場面のほうが圧倒的に多い。 多くの言葉を知っていて、しかし真実を言葉ではなく行動で示す人が最も素晴らしい。立派な言葉を多く吐く人というのは、真実を行動ではなく言葉で示すことしかできない哀れな人である。そして、真実を知り真実を行動で示す人は、真実を言葉で示す哀れな人に対して、いつも優しく接するだけの素晴らしささえも備えている。 饒舌に物言う人は、馬に船に光ファイバーに乗せて千里の先へも声を届ける。饒舌に物言う人は、石に紙にハードディスクに文字を刻んで千年の先へも声を届ける。しかし、今この場所にある生活を支えている人というのは、いつも物言わぬ賢人なのだろう。そうした賢人というのは地味な商売を親の代から続けているような汚い商店の店先などにも立っていて、実に見出すことが難しい。 饒舌というのは、利もあるが害も多い。そういうことをふと思い、そして今日も饒舌に言葉を書き残す。 #
by antonin
| 2008-09-20 05:22
|
Trackback
|
Comments(0)
#
by antonin
| 2008-09-19 02:00
|
Trackback
|
Comments(9)
Wikipediaなんかを読んでいると、結構な頻度で「メルクマール」という単語を目にする。だが、この単語の意味がさっぱりわからない。調べてみても、「目印。指標。」とかいうそっけない説明しか出てこない。多少親切な説明でもこの程度だ。 メルクマールとは ~ exBuzzwords用語解説 Buzzwords用語解説というあたり皮肉が利いていて気持ちいいが、やはり意味がわからない。メルクマールという日本語は"Merkmal"というドイツ語から来ていて、英語で言う"milestone"的な意味で使われているような感じが伝わってはくるのだけれども、"milestone"と"Merkmal"で検索に掛けてみても、あまりいい具合の結果が出てこない。どうやらドイツ人はMerkmalという単語を一里塚というような意味で使ってはいないようだ。 どこにもズバリの意味は書かれていないのだが、色々なページを読み進めていくうちに、日本語としての「メルクマール」にはいくつかの意味が含まれていることがわかった。そのうちのひとつは上記にあるような「一里塚」という使い方だ。一定の到達点を迎えた、というような意味でも使われるようだし、変化がある臨界点に達して、そこから先は坂を転がるように変化が進んでいくという、転換点を指すような意味合いでも使われるようだ。 「K/T境界は中生代と新生代を識別する重要なメルクマールである」みたいな表現に使えるらしい。もっとも、「メルクマール」という言葉自体が人文系の香り漂う用語ではあるので、あまりこういった地質学分野の文章で使われることはないだろう。近代と現代の境界だとか、神経症と精神病の境界だとか、そういう曖昧なものの区別の基準を、少し大袈裟に表現するといった場面で使われているようだ。 もうひとつの意味は、比較的ドイツ語の一般用語に近く、また辞書的な意味にも近いもので、「指標」というもの。あるもの全体を直接に観察するのではなくて、何か代表的なわかりやすいものを観察することで全体の傾向がとらえられるとき、そのわかりやすいものを指して「メルクマール」と呼ぶようだ。 「フェノールフタレインの発色は溶液のアルカリ性を知るための良いメルクマールである」というように使えるが、例によってこんな理工系の文章にメルクマールという言葉は登場しないので、「人気のバロメータ」というような感じに、「投票率がどこまで上昇するかが、人々の政治への期待に対するメルクマールとなるだろう」というように使われるようだ。ちなみに「バロメータ」というのは気圧計です。天気予報の良い参考になります。 ドイツ人は今もこの用法で"Merkmal"という単語を使っているようで、例えば蹄が割れているというのは、ある動物が偶蹄目に入るためのMerkmalであるというような使い方をするらしい。最近の分類学は遺伝子ベースなので、Merkmalもゲノム配列なんかに移っているんだろうな。 また少し「一里塚」に戻るような意味合いとして、「目標」とか「道標(みちしるべ)」というような意味合いでも使われる場合があるようだ。ちょっと先のほうにドカンとメルクマールが立っていて、人々がそれを目指してぞろぞろと行進していくようなイメージになるらしい。もちろん「東京タワーをメルクマールとして直進してください」というような、そのままの意味で使われることはなく、「MacintoshはパーソナルGUIシステムの進むべき道を示す偉大なメルクマールとなった」というような比喩的な使われ方をするほうが多いようだ。 最後に、日本語としての「メルクマール」にはもうひとつ重要な意味があって、それは哲学分野の学術用語らしいのだけれども、これは「概念」とか「属性」というような、それでいて普通の意味とはちょっと違うような用語らしい。普通に「概念」という意味にはちゃんと"Begriff"というドイツ語の名詞があるのだけれども、哲学者というのは普通の人が気にも留めないような微妙な意味の違いを研究しているから、単語がひとつでは足りなくて"Merkmal"という名詞を持ち出したらしい。 パターン認識における「特徴」という意味合いで、ドイツの情報科学や認知科学の人たちは今でもこの用語を使っているらしいのだけれども、これはおそらくこちらの哲学用語のほうから派生しているのだろう。現代の日本語を見回すと、こちらのほうの意味で「メルクマール」という単語を使っている文章というのは、少なくとも一般の人が使う言い回しの中ではあまり見かけない。西洋哲学なんかを専門に学んでいる人はこちらの意味しか知らなかったりして、一般の人が使う「メルクマール」の用法に対して違和感を持っているようだ。 結局のところ、日常ときどき目や耳に入る「メルクマール」という単語は、英語で言うところの"mark"と非常に近い意味を持っているらしい。詳しい訳が載っている英和辞典でmarkという単語を引くと驚くほど多くの意味が並んでいて、そのうちのいくつかは最初のほうに述べたメルクマールの意味に近い。これを日本語で「マーク」と言ってしまうと普通すぎる感じがして良くないので、あえて難しげなドイツ語でメルクマールと言ったりするのだろう。ペダンチックな感じを醸しだすのに最適な言葉ですので、ぜひ覚えておきましょう。 現実的日常とは全く異なる次元に対して大きく開かれたインフォスフィアにあって、ジャーゴンに満ち満ちた、この茫洋たる世界を彷徨う現代の諸氏にとり、拙文がわずかなりともその不安を解くメルクマールたりうるならば、筆者としては望外の喜びであると云う外ない。 といった感じでこの項終わり。 #
by antonin
| 2008-09-18 10:05
|
Trackback
|
Comments(7)
|
ファン申請 |
||