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モーリス・ラヴェルに「ダフニスとクロエ」という有名作品があるが、バレエ音楽として依頼されたこの作品は舞踏の伴奏というより大仰な純粋音楽に近い作品として仕上がり、当時はいろいろと批判されたという。ラヴェルは作品に美しい夜明けの描写を含めたが、これに対して「ラヴェルは本物の夜明けを知らない」という批判が届いた。当時のラヴェルは夜型の生活で知られており、夜明けには眠っているだろうという揶揄だった。 19世紀のヨーロッパにはガス灯、アーク灯、白熱灯などの照明が次々に現れて、月に頼らなくとも夜歩きに苦労しなかったというから、20世紀初頭に活躍したラヴェルも現代同様に夜の活動には苦労しなかったはずだが、都市が眠らなくなった現代に比べれば、夜明けを見ないと言う程度で夜更かしが批判されているのは時代を感じさせる。文字や音に魅力を感じる人間にとっては、多くの人が眠っている夜というのは比較的にしても美しい時間である。その美しい夜にも終わりがあり、夜更かしはときどきそれを目にすることになる。闇は消え、窓越しに見える空の色は移ろい、鳥は啼き、空気は冷える。そして人々が起き出して夜が終わる。 幸せな時代の終わりというのは、あからさまに不幸な時代を生きるのとは違った辛さがある。武器を持った敵が迫り、家が焼かれ友や家族が死んでいく中では、ある程度人は生き抜く力を持つようにできている。ところが、食べるものにも着るものにも困らず、文字や音を愛でた時代のあとに余裕がなくなり、普通の人々が次第に殺気立つ時代というのは、夜明けを迎えるのに似た悲しみがあり、そしてその悲しみは朝になって目を覚ますことしか知らない人々には決して理解されない。 仏教に六界という考えがあって、輪廻の中で人間というのはその上から二番目、人間界というところに滞在しており、死ぬと次にはまたそのどこかへ生まれ変わるとされる。仏教の目標はブッダになることで、ブッダになるということはこの輪廻そのものから抜け出ること、つまりは解脱というものだった。ブッダその人は相手に合わせた言葉を使う人だったから、相手に合わせて輪廻を説いていたものの、人の話にしか現れないような世界をそのまま信じるタイプの人物ではなかったようだ。 その正統を引いたインドの仏教は滅亡したが、日本にはその滅亡の少し前の、今でいうヒンドゥー教に完全に飲み込まれる寸前の形をした、密教と呼ばれるものが唐を経由して伝わっている。その密教には、六界の最上である天界から魂が抜けつつある兆候を見せるときの苦しみが、六界の最低である地獄の苦しみの十六倍で最も強い、という説がある。 ブッダの没後に精神性を高めていく仏教の歴史の中で「解脱」は難解で超越的なものになり、宗派によっては凡人の解脱までには輪廻の繰り返しの中で禁欲的な修行を続ける必要があるとか、遠い未来に菩薩が如来になるときに引き受けられるまでは決して解脱できないという話にもなった。しかし、原始仏教の時代のものとされる経典に現れるブッダの言葉を現代的に見ると、もっと即物的な、ある種の女嫌いの側面が際立って感じられる。 魅力的な女を見れば女を愛し、女を愛せば結果として人間が生まれてくる。この生まれてきた人間に宿った魂にとっては、生まれてくるに際しての自由はなく、その後を生きる上での全ての苦しみは、この生まれるということに発している。その生まれるということは女を愛したことに発しているのだから、全ての人の生きる苦しみを解決するには、女を愛することをやめればよい。女を目にするから女を愛してしまうのだから、女を目にすることのない生活をすればよい。だから家を出て林で暮らせ。そのようなことを言う。 ブッダは北部インドにあった初期共和制のローマに似た寡頭制の国で、その寡頭の一角を占める家系の長男として生まれたが、長じて男子が生まれたところで家を継がずに出家してしまう。結局その家系は没落し、後日妻子が、その頃には宗教指導者として諸国の王に取り入った生活を営んでいたブッダを頼ってやってくる。仕方がないので女は女だけの集団を作って同じような生活をさせたが、息子は自らの教団に含めた。この息子はブッダの死後に十大弟子に数えられるまでになるのだが、そのいくつかある尊称のひとつは「忍辱第一」とされている。彼はどういう気持ちで「子を成すな」という教えを説く父の元で暮らしていたのだろうか。 芥川龍之介の遺稿を眺めていると、自分はヨーロッパ人のように自殺を罪とは考えない、というようなことを書いている。初期の幻想的な作品と違って、晩年には作家を取り巻く日常を漠然と描写したような文章が増えている。雑誌の編集者に文章をくれと要求されて一度は断るが、編集者があまりにもしつこいので、ではこのやり取りを書かせてもらうがいいのかといって、本当に書いたがさすがに没になったというような未定稿もあった。作家も有名になりすぎると、こういう没原稿や、ひどいと友人や恋人への手紙なども死後に出版されて売り物にされるので気の毒だ。 そういう、有名な作家が書いたというだけであまり作品として崇高とも思えない文章の中に、スナップ写真に写り込んだ背景のような時代の様子が描かれることがあり、現代から見ると興味深く見えることがある。「歯車」という作品に、回転する半透明の歯車のようなものが作家の視界に紛れるという描写があり、それに続く頭痛の話と合わせて片頭痛の症状だろうと見る説がある。同じ作品に、一時的に裕福にしていた人々が没落した様子も描かれている。 ヨーロッパでは第一次世界大戦が大正3年から7年にかけて起こり、その巨大な組織戦にまつわる資材調達は東洋にも及んだので、日本にも戦争成金というものが発生したという。戦場は広がり、多くの土地が焼けて多くの人が死んだが、戦場から遠かった日本は好景気に沸き、この時期には多くの雑誌が創刊され、フィクション、ノンフィクションを問わず、多くの文章が求められたという。大正デモクラシーのような進歩的な空気が生まれ、芥川龍之介はそういう空気の中で大正4年に小説を発表し始め、世に認められていく。 芸術家というのは、特にその作品が高度なものであればあるほど、清流の中でしか生きられない魚、あるいは炭鉱のカナリヤのようなもので、環境が乱れると誰よりも先に苦しみ、あるいは死んでいくものなのかもしれない。歴史に名を遺すような偉大な芸術家に限らず、役に立っているのかどうか定かでない学問を専攻する学者や、いつ利益を上げるのか知れないような開発をしている企業の研究員なども含めて、豊かな社会に飼育された愛玩動物のような存在なのかもしれない。 そういう者たちが、徐々に豊かさを失う社会の中で苦しんで死んでいくのは仕方がないことなのかもしれない。天界に生きてきた中で輪廻から解脱できなかった報いなのかもしれない。大戦景気の終わりには芥川龍之介が死んだが、景気後退の折々に芸術家が死んでいたのだろう。バブルの終わりなどを見ると平成9年に伊丹十三が死んでいるが、似たようなものと見ていいのだろうか。ドヴォルザークがニューヨークで神経衰弱に近い状態になったのも、ボヘミアの自然を愛した芸術家が都市に倦んだこともあるだろうが、機関車好きという趣味もあった彼が衰弱した根本的な理由は、彼を招聘したサーバー夫人が恐慌に巻き込まれて経済的に疲弊したからだと考えることもできる。 歴史に名を遺す芸術家にしてそのような状態なのだとすれば、特に際立った才能のない、流行に乗った芸術家が、特に際立った血統のない、流行に乗ったペットのように処分されるのは、それは当然のこととして考えるしかない気もしてくる。退廃芸術を焼き、障碍者を焼いたヒトラーも、経済的困窮が生み出した民主主義の当然の帰結にすぎないとすれば、それほど責められたものでもないようにも、今なら思える。時代劇の中で人世の生き血を啜ると痛罵され斬殺されていた悪代官も、舞台の背後では芸術を愛するパトロンであり、人に憎まれる方法で肥やした私腹から芸術を支援していたと、想像をたくましくすることもできる。 平和を愛しソフトパワーを輸出したとされる戦後日本だが、その復興の初めには朝鮮戦争の特需があった。第二次大戦では日本も戦線を広げ自ら多くの爆薬を消費したが、大正デモクラシーには第一次大戦の特需という面があったのだろう。失われた20年のあとで日本はすっかり貧しくなったが、それ以前の好景気も、ひょっとするとイデオロギーや石油をめぐる遠い国の戦争から恩恵を受けていたのかもしれない。 ソクラテスまでの時代のアテネにおける学問と芸術の繁栄にしても、戦争を勝ち抜いて敗者を奴隷にし、労働を押し付けた結果としての自由が生み出したものに違いなく、そういう好景気の中でしか生まれない学問や芸術それ自体が、実は本質的に人の血をすすってしか生み出され得ないものなのであって、ミューズへの捧げものは、本当は働く人の血と涙なのかもしれない。 #
by antonin
| 2018-06-04 02:15
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雄鶏ではないが、カラスが鳴き、空が白む。 方角と同じように、時刻を十二支で呼ぶことは知っていたが、十干十二支はある種システマティックな60進数の系統でもあるので、十二支で時刻を表すのは比較的にしても新しい方式らしく、それ以前には12の時刻がそれぞれに名前を持っていたということを最近知った。その古い呼び名では明け方の刻を鶏名というらしいのだが、夜明けの移ろいにはいろいろと名前が付いており、十二支の時刻と一応の対応はつくものの、真っ暗な夜中はひとくくりに「夜半」と呼ばれたりしていて、日の出と日の入りの間を6等分した新しい方の時刻体系とはまた違った、体感的な時間区分だったようだ。 六十進法 - Wikipedia 十二時辰 - Wikipedia 若いころ、まだテレホーダイが導入される以前だから当然固定電話回線の話なのだが、市内通話にも深夜割引が導入されるようになって、夜11時を過ぎると3分10円が4分10円になってお得、というような時代があった。そういう時代に親のスネをかじってパソコン通信のチャットをしていると、ときどき話が盛り上がって夜明けを迎えることがあった。誰かが夜明けに勘づくと、それがまたひとつの話のネタになるのだが、スズメの鳴き声で夜明けに気付くことを「スズメに負けた」と表現する人がいて、面白かった覚えがある。 今日は話に盛り上がったわけでもないが、カラスに続いてそろそろスズメもうるさくなってきたので少し眠ろう。 #
by antonin
| 2018-05-18 04:17
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先日、気まぐれに地元の図書館まで行ったが、本を入れられる大きさのカバンを持っていないことに気付いたので、日暮らし書架の本を読み歩いた。しばらくそういうことをして、興が乗ったので読んだ本の関連書籍を検索してみると、本館にしか蔵書されていないらしい。まあいいや、ということで新聞コーナーへ移動した。国内主要紙と一緒に人民日報やら朝鮮日報やらも置いてあるので、軽く眺める。人民日報はそっけない広報紙のような内容だが、朝鮮日報は広告なども載っていて面白かった。文章は読めないが、広告に「ロッテマート」と書いてあるという程度のことはわかる。そういう、海外のストリートビューを眺めるような遊びにも飽きて、週刊読書人というのを読むと、マンガが紹介されている。ナンセンスものなのだが、テーマが巨大数なのだという。 上のAmazonリンクは紙書籍しかないが、pixivでも読めるらしい。 寿司屋は絵にする上での単なるツールといった扱いを受けていて、内容としてはほぼ純粋に巨大数の紹介になっているらしい。冒頭を少し読むと、二項演算の説明あたりから始まり、ふぃっしゅ数の軽い紹介をしている。ふぃっしゅ数というのは、以前読んだ巨大数論の著者さんがかつて2chの数学版で検討したというもので、有限時間で計算可能な、チューリングの計算可能関数のテーゼをはみ出さないギリギリの巨大数関数というものだ。これは過去に紹介したことがある。 そのPDFもしっかりとしたフォーマットの第2版になっていて、オンデマンド出版されたものをAmazonから買えるようになっている。 お父さん今日はリンクいっぱい貼ってみたぞ。 で、Wikipediaの該当項目なども当時より内容が豊富になっていて、それはそれでいいのだが、個人的には巨大数の「巨大さ」には実はあまり興味が無かったりもする。それよりも、数論の発展として、自然数→整数→有理数→実数→複素数ときて、いったいその先はあるのだろうかという疑問が先立っていた。 加算だけなら自然数で閉じるが、減算を導入すると負数が要請されて、整数が生まれる。乗算だけなら整数で閉じるが、除算を導入すると分数が要請されて、有理数が生まれる。累乗だけなら有理数で閉じるが、累乗根を導入すると虚数が要請されて、複素数が生まれる。累乗は交換則が成立しないので、もう一つ、対数という逆演算が出てきたが、対数は特に新しい数の空間をもたらさなかった。定義域の限定などもあって、ひょっとすると現代数学の対数というのはまだ不完全なものなのかもしれない。 そういう流れがあって、二つの疑問を持っていた。ひとつは、「実数とはなんだろう」というもの。無理数というのは有理方程式の解ではない数というだけの意味であって、実はその定義ははっきりとしない。一応複素数は無理数の中には収まらないということになっていて、実数は1つの数直線に乗っていたるところで大小比較が可能でないといけないという限定がある。けれども特に多項式方程式から要請されるという限定もなく、超越関数の解であっても構わない。虚数がimaginaryなのに対して実数がrealというわりには、実数というものもあまり実感の湧かない定義をされている。 もうひとつは、「複素数の次があるとしたら、どういう数になるのだろう」というもの。対数があまりいい感じの数を導入できていない現状なので、複素数を要請した累乗根の方に注目すると、演算としては「その次」を簡単に考えることができる。それはテトレーションの逆関数のうちのひとつ、超根(super-root)になる。累乗根の次に来る超根が閉じるために、複素数より広い新たな数論的な空間が要請されるのかどうか、もしそういう空間が必要なら、それはどういう次元を持つのか。複素数と同じように2次元空間に収まって2個の実数の直積で表せるのか、それとも2個の複素数の組を使った4次元になるのか、あるいはそのうち1次元が縮退した3次元空間になるのか、と、そういう疑問を持っていた。 減算が負数を要請したとき、本来であれば a + b = c の逆演算である a = c - b というのは、a = f(c, b) という2項演算で終わっていても良かった。けれどもこれには、 0 - 2 = 1 - 3 = 2 - 4 = 3 - 5 = ... という同値関係が見つかり、 したがって a = c - b = f(c, b) = f(c - n, b - n) という重なりが生じた。ここで、a は自然数の範囲をはみ出す負数に限定すると必ず b > c となるから、n に c を入れて自然数 b - c を d とすると、 a = c - b = f(c, b) = f(0, b - c) = f(0, d) というように、片側が必ず0になるような変換が可能になる。二項演算の片側が固定なら関数のほうへ取り込んでしまえばいいので、 f(0, d) = f0(d) = -d という具合に記法を簡略化できる。-d というのは演算子を使った f0(d) の簡略記法である。つまり単項演算子としてのマイナス記号というのは「0 - x の答え」という定義になっていて、 3 - 5 = -2 という式は「3 - 5 の答えは 0 - 2 の答えと同じ」という意味になる。その答えは自然数の範囲を超えて、-2 という新しい数になるが、同値関係がなければ 3 - 5 と 0 - 2 は f(3, 5) と f(0, 2) という異なる二つの数、それも二つの自然数の直積で表される2次元の数になっていたはずだ。本来二次元になる「a - b の答え」という値が要請されたのだが、実際の整数は同値関係によって縮退して1次元に配置可能な数になった。しかも、同じ同値関係が自然数との連結も要請して、半直線であった自然数と新しい半直線である負数は、互いに 0 で接して両無限の直線を作った。これは実は不思議なことだ。 同様に、a × b = c から a = c / b という逆演算が生まれて、「m / n の答え」を表す分数が要請された。分数の定義には二つの自然数が使われているので、これも本来的には2次元の広がりを持った数になっても良さそうだったが、実際には約分という同値関係と分数の大小関係から、分数は整数と整数の間を埋める数になるという性質が導かれ、分母と分子という2つの整数で定義される有理数はなぜか稠密な1次元の直線を作った。これもまた不思議なことだ。 同じことを繰り返し、ab = c という累乗演算から累乗根 a = b√c という逆演算が作られた。 b√c というのは「c の b 乗根のひとつ」という関数の演算子による簡略表現なのだが、この関数は実は f(b, c) ではなく fb(c) という形をしている。これもまたオイラーの美しい式によって z = x + yi という形に縮退するので、b乗根のようなややこしいものは通常考えなくて済む。虚数単位 i というのは「-1の2乗根のうちのひとつ」を表す記号なので、b√c という二項演算が本来持っていた広がりに比べるとやはり縮退しているのだが、こうして生まれた複素数は最終的に1次元には収まらずにガウス平面という2次元空間を作り、ここで初めて数の作る空間の次元が上がった。 有理数に無理数を加えた実数のほうは有理数と同様に稠密な1次元の直線を作るのだが、その「濃度」は有理数よりも大きいということになっている。その前提の下では、ある同じ値に収束する無限有理数列(コーシー列)は、その極限値を共有するという関係で一つの集合を作るのだが、現代の数学ではこの集合こそが極限値にあたる実数要素の正体だということになっているらしい。この結論には個人的に納得しきれていないのだが、今の公理ではそう結論するしかないね、という気はしている。ここをひっくり返すには、解析学のご本家でありヘビーユーザーでもある物理学とご相談、ということになるだろう。 こういう具合に、二項演算の逆演算で求まる数というのは本来、2個の数の直積から成る空間を張るはずなのだけれど、元の演算が持っていた性質から延長される同値性によって、空間は縮退する。だから複素数のテトレーションが定義できたとすると、その逆関数が要請する新しい空間は本来的には2個の複素数の直積、つまり4個の実数が張る4次元空間になるのだけれど、その次元のいくつかが縮退して、2個か3個の実数が張る空間になる可能性がある。テトレーションに強力な規則性があれば、同値解が容易に見つかって「複素数の次の数」は複素数より濃度の大きい集合として2次元に収まるかもしれないし、逆にめぼしい規則性がなければ単純に4次元空間を張るかもしれない。加減乗除への適合性からすると、四元数に少し手を加えたようなものに落ち着くのかもしれない。 それ以前に、群→環→体ときて、そこに冪乗や指数という第5の演算を追加したような代数系を見たことがない。その逆演算になる複素根や複素対数については、抽象代数論というより具体的な複素関数論としてもまだ充分に練られていないのかもしれない。四元数は非可換の多元体ということになっているが、そこでは乗算が非可換になってしまっている。その前にまず一般化された複素数、つまり乗算については可換で、そこに加えて非可換な指数演算についても閉じた代数系が必要になる。それがあって初めて、逆演算を追加したり、非可換なテトレーションを追加したり、という話ができるようになる。 フェルマーの大定理や四色問題のように、数学の世界では3とか4とかで発展が打ち止めになるような規則は多いから、同じことの繰り返しで高次元の世界を模索しても無限の多様性を見せてくれるとは限らないのだが、数そのものを拡張してしまうことで、これらの定理に反例を持ち込み、高次元の世界でも単調な乱雑さから脱出できる可能性もなくはない。そうなれば、10年以上前に匙を投げられたような状態にある複雑系の解析にも、道具として使えるようになるかもしれない。 今世紀の数学者たちには「複素数の次の数」の性質をいろいろと調べてほしいと思っているのだが、私が知らないだけで、ひょっとするともうどこかに断片的な答えがあったりするのだろうか。あったとしても、難しすぎて私には読めないだろうが。 #
by antonin
| 2018-05-03 04:06
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5時に目を覚ました。夢というのではないが、起き抜けの時には仕事の厄介について考えていた。夢の要素はなかった。時間に追われて仕事をしているときと同じことを考えていた。 仕事の上の2時間、3時間を予定外に消費したことを咎められる時の気分というのは、外食で4000円程度の消費を咎められる時の気分に似ている。そこには確かに消費しただけの価値はあるのだが、お前にはそれを消費する価値はないと言われている気がして、憂鬱になる。果たして価値があるのかというと、確かにないようにも思う。 -- 2年近く前に、twitterのタイムラインでAmazon安売りが紹介されていたマンガをまとめ買いで購入した。購入履歴を掘り返すと、15冊全巻セットで645円とある。1冊あたり45円である。その頃にいろいろと購入したので、しばらくは読みもせず放置していた。今年に入って、文字で書かれた本を読む力をかなり失ってしまったので、その頃に購入した漫画をKindleで読み始めたのだが、名作だった。まだ大衆に知られていない名作というよりは、ある種の日本人の心を刺すような作品だった。 現在は1冊432円で販売されている。kindle unlimitedのリストに入っているので、人によっては無料で読めるのだろう。1986年から1997年にかけて描かれた作品だという。私の年齢でいうと、14歳から25歳にかけての作品ということになる。私には妹がいたので実家にはいくらかの少女マンガ誌があったが、この作品が掲載されていた「ぶ~け」という雑誌を見たことはなかった。 この作品のネタバレを書くかどうかは迷うが、私が書いてみても価値がないように思った。ただ、本作には自分に重ね合わせたくなるような青比古という登場人物がいて、私の妹に重ね合わせたくなる透祜という人物もいる。ただ、その二人は兄と妹ではなく、もう少し離れた関係にある。その離れた間に、兄にあたる鷹野という人物もあるが、その人物にはあまり私と重なる部分がない。本来はこうありたかった自分、という意味では重なるかもしれない。概要が知りたければWikipediaに項目がある。 イティハーサ 私は書籍としては小説より学者の書いた一般向け書籍などを好んで読む方だったが、マンガにはそういうジャンルはないので、物語ばかり読むことになる。そうすると、不思議と女性作家の作品に魅かれることが多い。家系にも地元にも勤め人の少ない環境に育ったこともあって、現代の勤め人を描く作品にあまり魅力を感じない。運動が苦手だったこともあって、スポーツものや戦闘ものにもあまり魅力を感じない。といって恋愛ものにも魅力を感じない。となると、本作のような精神性を持った物語に近づくわけだが、そうなるとどういうわけか女性の描く作品にたどり着くことが多い。幻想的な本作もそんな作品のひとつだ。 -- 日曜日の朝早くに目が覚めて、週末に独断で少し薬を減らした影響なのか、勤めのことを考えている。増薬して勤め人としての耐性を高めて生き続けたほうがいいのか、減薬して自分らしさを取り戻して死んだほうがいいのか、まだ迷いがある。どこまで始末を付けたら残した人が困らないのか、まだ迷いがある。過去に、まだ生きようと決めて、この世への未練を減らすような保険商品を切り捨てたことがあった。それが今になって利いていて、モラルハザードになる補償が少ないことが確かに現世への未練になっているが、その未練に苦しんでいる。 通貨の形をした借りはもうないが、通貨の形をした蓄えもない。通貨の形を取らない蓄えは不動産の分譲所有権程度のものだが、通貨の形を取らない無形の借りは、もう返済不能の不良債権として焦げ付いた状態になっている感じもする。あとは、サンクコストとして損切りをするかどうか、それを債務側の独断で決行するという罪を犯すのか、塩漬けにして先送りするという罪を債権者と共有していくのか、という選択しか残っていないように思う。 #
by antonin
| 2018-04-08 06:35
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今日は薬を飲み忘れたためか、日没後に疲れ果てて頭痛に悩まされたりした。その後薬は飲んだが、頭痛の原因にはカフェインの離脱症状なども混ざっているらしい。時間が時間ではあるが、誘惑に負けて風呂上がりにコーヒーを一杯飲む。気分は楽になったが、日曜の夜だというのに眠れない。他にもいろいろあったが、それはそれで。 -- Kindleでマンガを一冊購入。 第1巻の内容は、よくできた学習漫画のようで説明的な物語に終始したが、その分、普通に面白く読めた。この第1巻が刊行されたのは2015年らしい。1年ほどで人気が高まったようで、今年の初めにアニメ化が決まり、7月の放映開始に向けて鋭意製作中とのこと。アニメを見る余裕があるかどうかはわからない。 なぜこの漫画を購入して読んでみたかというと、以前からこういう物語があったらいいと思っていたからだった。 マクロコスモスとミクロコスモス:安敦誌2010年のネタなので、アイデアだけなら私が先だと主張はできるだろう。まあ、こういう作品というのは形にする作業が主で、アイデアなどというのは人を集めればいくらでも出るものなので、アイデアだけの先権など主張しても仕方がないだろう。私の擬人化のアイデアにしても、若いころに見た「驚異の小宇宙 人体」という美しい番組に影響を受けたものなので、同じような影響を受けた人は世に多いだろう。そういう他愛もない思い付きを実際の作品として読めるというのは幸せなものだ。 この作品が私のものと似たようなアイデアに根差しているとするなら、まだ作品には登場していないとみられる神経系とのやり取りを見ることができるか、というのが今後の楽しみということになる。戦闘、戦術、作戦のレベルまでは免疫系が完備しているが、戦略レベルになると神経系の影響を受けるようになる。 大戦略レベルでは戦いというより政治に近い世界となり、脳関門の向こう側にいる中枢神経たちが下す、わけのわからない判断が個々の戦局を左右するようになる。その判断は、前線の細胞たちの想像を超えた高度な謀議の結果であるとも言えるし、うらはらに現場への無理解と怠惰の結果でもある。前線は中枢の判断に時に煮え湯を飲まされながらも耐え忍び任務を遂行することになる。 命を賭して敵と戦っている細胞からは「現場じゃ今も細胞が死に続けているんだ」という叫びも出るが、個体寿命より短い寿命を持った循環器系の細胞などそもそも使い捨てられる運命であり、最長寿命が個体寿命とほぼ一致する心臓や中枢神経などの細胞と末梢の細胞とでは、見るべき対象が異なる。脳の保身と言われても、それが文字通り人間個体の「保身」につながるのであれば、それも体細胞として正しい働きには違いない。中枢神経が遺伝子の奥技「恋の病」にでもかかれば、心臓まで巻き添えにされて、身体はお医者様でも草津の湯でも治せない危険な状態に陥る。 「はたらく細胞」がそういう社会派ドラマにまで育つのかどうかは分からないが、財布と相談しながら読み続けていきたい。 #
by antonin
| 2018-03-26 00:48
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