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んー。思索家ではあっても哲学者ではなさそうだ。ひとまずエンジニア向きでないのは自覚している。計画性ゼロ。まぁ、選択肢が自己評価なんで客観性はないが。 無料性格診断テスト、性格タイプ詳細説明、人間関係およびキャリアのアドバイス | 16Personalities ![]() #
by antonin
| 2017-04-29 03:36
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最近、また少しまとまった文章を読めるようにはなってきたが、書籍の通読などはまだ難しく、空き時間で書籍の中からブログサイズ程度の文章を読み切ると、そこで疲れてしまう。疲れると、ネットニュースなどを眺めている。 焦点:人手不足と鈍い賃上げの逆説 | ロイター 日銀の黒田東彦総裁は11日、参院財政金融委員会で「人手不足の割に賃金の上がり方がやや弱い」と指摘した。 そういえば、以前にそういう現象のことを書いた覚えがあった。 労働の市場化と雇用の市場化を : 安敦誌 つまり景気が良い時には、労働対価が高騰するのではなく、単に労働力の供給が減少する。 日付を見ると4年前の文章なので、今と社会状況はそう大きく変わっていない頃の話だ。予言というより、単なる定性的な現状分析でしかなかったが、実際に法制や社会通念の改革が行われない状況下では、頭で考えたのと近い現象が出るものだなぁ、とは思った。対応策として「労働の市場化と雇用の市場化」と言ってはいるが、年齢構成的に老いた日本社会では、そういった商慣習や法制の背景となっている思想の転換までが必要となるような構造変革は、もうできないだろう。いつの世も老人の頭は固いのだ。 2020年には、無策のまま医療や介護を破綻させ始めた東京がオリムピック・ゲームズを迎え入れる。8月開催だという。打ち水などは辺りを涼しくするものと単純に信じられているきらいがあるが、夕暮れ時に地表の顕熱を潜熱に転換するところに意味がある。地を撫でる宵の風がいくらか柔らかくなる。真昼に陽の当たるところで水を撒きすぎると、ミストサウナを作るようなもので、無駄に湿度が上がって汗による体温冷却効果が抑制される。真夏のヒートアイランドで、海外の貴重なアスリートを死なせてしまったりしないといいのだけれど。 #
by antonin
| 2017-04-12 23:17
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油やフッ素化合物を塗った表面は水を弾くが、あれは実は、水分子どうしの分子間力が強すぎて、水分子が隣の分子と離れようとしないために起こっている。水分子の集まりである水滴の表面にいる水分子は、内側の水分子に強く引きつけられて、水分子が外に露出する表面をなるべく小さくしようとする力が働く。これを表面張力という。 その強すぎる表面張力によって、水滴のほうが油やフッ素化合物を界面の外に弾き出している。油やフッ素化合物は電気的な分極による分子間力が弱い。こういう物質は水に弾かれる。油が水を弾いているのではなくて、水のほうに油を弾き出す原動力がある。 一方、塩は水によく溶ける。「塩」は広く「エン」と読んでもいいが、ここでは「しお」と読んで、食塩を考える。水に溶けない塩(エン)もある。塩は個体であっても陽イオンと陰イオンを保っていて、NaClという分子になっているわけではない。Na+というイオンと、Cl-というイオンが、イオンのまま静電気のような力で互いに張り付いている。 ナトリウムイオンや塩化物イオンは、水分子の分極以上に電荷が強い。けれども、塩はプラスとマイナスに分解してしまう。水分子は、分子内にプラスとマイナスを持ち、分解しない。プロトンの貸し借りはするけれども。 塩から出たプラスイオンのまわりには、酸素を内側に向けた水分子が集まってきて、水素を外に向けた水和クラスターができる。水分子では電気陰性度の高い酸素原子の側にマイナスの電荷が偏っていて、逆に電子を酸素に奪われ気味の水素原子の側では、水素原子核であるプロトン(陽子)がやや透けて見えるようにプラスの電荷を帯びている。 マイナスイオンのまわりには、水素を向けた水分子が集まってきて、酸素を外に寄せたクラスターができる。ただし、水素は2個あるので、2個とも内側に向けられることもあれば、まわりの水分子が邪魔で、1個しかマイナスイオンの方に向けられないこともある。 強い電荷のまわりには、それがプラスだろうがマイナスだろうが、水分子の取り巻きができる。水分子はプラスもマイナスも持っているし、その割には身が小さいので、そういう事ができる。そういう取り巻きの力で、塩のイオンたちはバラバラにされてしまう。イオンのまわりに水分子たちが取り付いて、あたかも大きな一つのイオンのように振る舞うが、本来のイオンは中心にいる外来のイオンだけで、取り巻きの水分子たちはただそちらの方を向いているだけにしか過ぎない。 水分子同士の結合は強いので、一つの分子を引き剥がすのには強い力が必要だが、水分子は軽いので、一度引き剥がしてしまえば運び去るのにはそれほどエネルギーを使わない。液体の水の表面にいる水分子が空気中の分子の熱運動に叩かれたりすると、どんどん飛び出していき、しまいには全部水蒸気になってしまう。しかしある程度の水分子が集まると、同じ水分子同士で集まり、その分子どうしの結びつきは強い。 油はというと、その分子の重さのために空気に飛ばされにくいために集まって油滴になるが、水分子は極性による分子間の結合力、仲間うちの結び付きの強さによって水滴になる。油の仲間ではメタンが水分子より少し軽いくらいだが、これを液体にするには-161.5°Cまで冷やす必要がある。この水分子の結びつきの原動力である、電気的な極性を共有できない物質は、水分子どうしの結合力に馴染めないことによって、結果的に弾き出される。 油の分子というのは、必ずしも同じ形ではなくても、炭化水素骨格を持っているような、おおよそ似た構造の分子であれば、互いに溶け合える。原油とは、いろいろな重さの、いろいろな形の炭化水素系分子の混ざりもののことで、そこから蒸留によって精製したガソリンや灯油であっても、やはりある程度の範囲の沸点をもつ分子の混ざりものになっている。 イオンどうしの場合も、電荷のバランスと大きさで結晶構造が変わる程度で、プラスとマイナスならどのようなイオンとでも結びつく。水の場合、その特徴的な分子の形から、ある程度相手を選ぶところが違う。 均質な水分子同士の相性はいいが、隣り合う水分子同士の結合は水素結合という比較的強い結び付きになっていて、なおかつ2個の水素が104.5度という微妙な角度で付いているため、両隣の水分子との関係の維持は複雑なものになる。水素の付いていない側の酸素には、隣接する2分子の水分子から水素を1つずつ引き付けており、水分子は通常4個の隣接分子と結びついている。 この結びつきが強すぎて、適温で液体を作っているときはお隣さんをときどき入れ替えながら仲良くやっているが、温度を下げて乱れを排して組織を固定すると、結合が強すぎて逆に隣の分子との距離が広がる。だから氷は膨張して水に浮く。氷では水素と酸素の結び付きは固定され、分子は回転することもできない。 氷の表面にはまだ結合していない水素か酸素がむき出しになっていて、空気中に水分子がある場合、磁石の塊に別の磁石が付くようにして氷の表面に固定されていく。この過程が、霜や雪の結晶を作り出す。 液体の水では、お隣さんの水分子との間で、ときどき水素の貸し借りが行われる。水素と言っても原子核の周りを電子が取り巻いた原子の状態ではなく、もちろんH2の水素分子ではなく、分子全体の電子雲は保ったまま、水素原子核であるプロトンだけを貸し借りする。水素を借りた水分子はH3O+になり、貸した分子はOH-になる。借りた水素が貸主に返される場合もあるが、別の水分子に又貸しされたり、貸した方も別の水分子から水素を取り上げたりする。 液体の水の中では水素原子核(プロトン)は天下の回りものなので、水分子の間を適当に流通していく。水素結合と、そういう水素の貸し借りには、不可分の関係がある。こうしてプロトンをやり取りしているうちに、貸し手と借り手が離れ離れになって残ってしまったH3O+とOH-が、常温の水の場合だと水分子180万個に一組くらいの割合で常に存在する。 外から水素の貸し手(酸)がやってくると、H3O+が優勢になり、水は酸性になる。逆に水素の借り手(塩基)がやってくると、今度はOH-が優勢になって、水はアルカリ性になる。H3O+が減った時にだけ水素を貸し出し、H3O+が増えると水素の返済を受け入れるような貸し手(弱酸)がいる一方で、押し貸しをして、なかなか返済を受け入れないような貸し手(強酸)もいる。塩基にも同じような強弱の区別がある。 #
by antonin
| 2016-06-04 01:49
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池田信夫さんがどこかで、財政ファイナンスが許されるなら税収ゼロで全歳入を中央銀行の通貨発行で賄う政府もできることになるが、そんなフリーランチは無い、というようなことを書いていた。(検索したが出てこない) 純粋に理論的に言えば、政府が善政を敷いて、国内総生産が安定的成長をして、その成長した価値の分だけ通貨を発行させて、その発行させた通貨の全額を政府支出として市場に供給すれば、一応無税政府は成立する。税金みたいに国民に文句を言われないから、普通は財政規律が緩んで歳出が国内成長を大きく超えるまでに膨れて、悪性インフレになるだろうという経験則があって、そういうのは失敗すると言われている。 仮に禅僧のような厳しい役人と政治家ばかりで無限の財政統制が実現できるなら、正しい国家運営に対する正当な対価として、政府は新規発行通貨を所得として得ることができる。現実には上に書いたような国民からの圧力の不在だとか、中央銀行が発行した通貨を最初に供給してもらう既得権を持った銀行の抵抗などで、そんな神聖な政府は生まれないだろう。けれども、一応理屈としてはフリーランチではない財政ファイナンス制度もあり得ないではない。 今の日本だって、ゆうちょを含めた銀行各社がこれまでに買った国債の債権を放棄すれば財政危機は終わるし、それで間接的に貯金を失う高齢者の最低生活保証を確保できれば、経済は本格的な回復路線に乗る。理論的には。理想的には。空気抵抗や摩擦は無視しても良い。 道州制とか、ベーシックインカムとか、非永住移民とか、みんな正しいんだけど、空気抵抗がね。摩擦がね。ダイラタンシーがね。まあしょうがねぇよな。私ら団塊ジュニアが75歳くらいの頃に日本経済は最悪の状態になって、その先は徐々に回復していくんだろうという話になっているが、途中で不連続点が出てくるかもしれない。ただ、日本の経済の件については、早めにドカンと処理するよりダラダラと処理する方が被害が少ないらしく、あんまり性急に経済政策とかしないほうがいいのだろう。 もうカエルはゆだってしまったので、あとはゆっくりコトコト煮込んで、21世紀後半の人においしく召し上がっていただくしかない。今さら冷ましてもカエルは生き返らない。南無。 #
by antonin
| 2015-06-05 03:46
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今日も、まとまっていないことを書く。ほとんど誰も見ていないとはいえ、まとまっていないことを表に書くのは不誠実だとは思うが、なんとなくリハビリ的に何か書いておきたいので書く。 -- 若いころ、私はネオダーウィニズムにはまっていた。自己組織化とかニューラルネットワークとかも好きで、数学的構造が環境に適応して勝手に高度な構造を生み出す仕組みに興味を持っていた。それに比べると、今は随分と平凡な仕事をしている。そんな話はどうでもいいのだけれども、「利己的な遺伝子」以降、ネオダーウィニズムはどういう方向に進んでいるのだろう。最近あまりこの方向を追っていなかったので、最新の状況がわからない。 というわけで最新の研究動向は知らないのだけれど、「利己的な遺伝子」の考え方に慣れてくると、そこに書かれていた遺伝子プールというものの役割がわかるようになる。多細胞の生物種にはだいたい3段階くらいの適応機構があって、まず一番短いスパンだと個体の環境適応がある。これにも食べたら太るというような最短スパンの適応と、成長過程で生育環境に適応するという、やや長いスパンがあるが、このあたりは1段階として考える。 それから、最長期スパンとしては、遺伝子コピーのエラーあたりに起因する突然変異と自然淘汰の累積による進化がある。遺伝子から生物個体が作られるという原理(セントラルドグマ)が提唱される前から、それこそダーウィンの時代から仮説として立てられていた古生物学を説明する原理としてはこのあたりの段階が考えられていた。 そして、その中間的な、数世代から数百世代での環境変化に対する適応がある。真核生物の遺伝子というのは染色体の中に遺伝子対があって、実際に表現型となって個体の機能に強く影響する優性遺伝子と、表現型とはならずにその世代では淘汰圧を受けずに遺伝する劣性遺伝子がある。赤血球凝固血液型のA型とB型のように、どちらも同じ程度に優性という組み合わせもある。 とにかく、最長期スパンのように、遺伝子そのものが新しく発生したり数が増えたりするのではなくて、同じ種の群の中でプールされる遺伝子の種類はほぼ変化しないような短期スパンでも、そこに含まれる遺伝子の比率というのは案外短期間で急激に増減することがある。表現型として表に出る優性遺伝子は、繁殖確率を通じて環境の短期的な変動の影響を比較的素早く反映する。 こういう変化では魚が犬になったりはしないけれども、ラマルクが考えたようにキリンの首の長さが統計的に長くなったり短くなったりという変化は起こりうる。ただし、そういうパラメータ調整のような変化では、やはり馬がキリンになるほど劇的な変化はできない。動脈の逆流を防ぐ弁だとか、そういうブレークスルーが突然変異によって起こらない限り、一定以上の変化はメリットよりデメリットが顕在化して阻害される場合が多い。ただ、有性生殖を行う生物種の場合、数十万年のスパンになるとそういう劇的な変化もかなりの確率で起こるものらしい。 ダーウィンが自分の目で観察したフィンチのくちばしの形状変化は、どちらかというとダーウィニズムによる進化というよりはパラメータ調整による短期スパンの適応段階による分岐のような気がするけれども、地理的要因で遺伝子プールがある程度絶縁されている以上、淘汰による進化の一種ではあったのだろう。 最近は遺伝的アルゴリズムやディープニューラルネットワーク、他にももっと古典的な機械学習理論が研究されているけれども、学習にもヒューリスティックな学習とメタヒューリスティックな学習というのがある。ヒューリスティック学習では、計算モデルは固定されていて、そのパラメータが環境からのフィードバックによる最適化を受けて精度を高めていく。 それに対してメタが付く方の学習は、基盤計算モデルと直接計算モデルの2層構造、あるはそれ以上の多層構造になっていて、基盤計算モデルが直接計算モデル自体をいじりながら学習が進む。ニューラルネットワークではニューロンモデルが直接計算モデルになっていて、学習を通じてシナプスの結合係数をいじって、実質的なネットワークモデルを変えていくことでパターン認識などの学習を行うヒューリスティック学習をする。 ここで、赤ん坊の脳味噌でニューロンが枝を伸ばしながらシナプスを新設していくように、ネットワークトポロジーそのものを組み替えていくような基盤計算モデルがあると、ニューラルネットワークはメタヒューリスティック学習をするようになる。このメタヒューリスティックができるようになると万能的な学習ができるようになるのだが、世の中に銀の弾丸は無いというか、効率まで考えに入れてしまうと、万能な学習モデルは無いという定理が存在する。 ノーフリーランチ定理 - Wikipedia 生物の適応でも個体適応は別として、短期の適応は遺伝子比率を動かすだけのヒューリスティックな学習であり、他方地質学的なスパンの「進化」となると、遺伝子プール内の遺伝子セットそのものが変わっていくメタヒューリスティック学習が行われていると考えることができる。ダーウィンが見た生物の微妙なばらつきの原因というのはたぶんヒューリスティックなものだけれども、そこから連想されたダーウィニズムというのはこのメタヒューリスティックな挙動を予想したものだった。 その後の放射年代測定技術や分子生物学の進歩で、ダーウィニズムはかなり強い傍証を得てネオダーウィニズムになっていくのだけれども、化石にならずに消えていった生物種のことなども推定すると、まだまだ分からないことが多い。これからわかってくることも多いのだろう。 人類が猿っぽい生き物から現代人のように進化するまでに、長く見積もっても300万年程度しかかかっていないらしい。そこにもメタヒューリスティックな進化がかなりあったとは思うけれども、大脳が大きくなるとか、背筋が伸びるとか、そういうあたりはひょっとするとヒューリスティックな変化が主要因なんじゃないかとも思う。 そういうヒューリスティックな、パラメータ調整程度の環境適応で充分に生きていけるほど安定した環境が続く場合、単純な生物からどんどん大型で複雑で長寿命の個体を持つ生物種が分岐してくる。ただし地球の歴史には隕石の衝突や火山の大噴火などによる壊滅的な環境変化が、長スパンで見た場合は定期的にあって、そういう急激な環境変化による大絶滅がおこると、貧しい残存環境では大型生物が選択的に絶滅してしまい、微小生物ほど生き残りやすい。そこで再び環境が安定して来ると、微小生物の多様化による大型生物への進化がやり直されることになる。 昔あった定向進化説というのはだいたいこういう原理だと思っている。進化そのものは大型化も小型化も起こりうる不定向なランダムウォークだが、地球環境の変化は小さい方から大きい方への拡散が目立ちやすくするような傾向を持っていたのだろう。そういう意味でいえば、昆虫自体は非常に長い歴史を持っていても、ハチやアリのような真社会性の生物というのは、案外に人類と同程度の歴史しか持っていないんじゃないかという気もする。 もちろん、ハチやアリのような形をした昆虫は昔からいたのだろうけれども、ハチやアリは個体数の割に繁殖能力を持った個体が少なく、世代交代は基本的に群単位で起こる。群の寿命は女王アリの寿命で規定されていて、結構長い。群からオスアリと女王仕様のメスアリがハネアリになって飛び立って別の群が独立する頻度は、それほど高いものではないらしい。 つまり、遺伝子の交換が起こる世代交代の単位でいうと、一匹の女王アリと少数のオスアリだけが意味のある個体で、働きアリはその従属要素ということになる。雑に言うと、遺伝子から見た場合一つのアリの巣が一つの個体というモデルで説明できる。働きアリは、生殖細胞に対する飛び道具的な体細胞みたいなものということになる。ドーキンスが批判していた群淘汰理論とは前提からして違う。 人類や真社会性のハチやアリ(の巣)というのは、「複雑で長寿命の大型個体を持つ生物」という意味で、似たような存在なのだろうと思う。こういうものが存在するということは、直近の大絶滅以降、比較的安定した地球環境が続いていたという証拠で、ヒトもアリも、その間に急激に進化した生物種なんじゃないかという気がしている。 そしてその進化は、突然変異が駆動するメタヒューリスティックな進化よりも、ヒューリスティックな遺伝子配合比率の調整による適応の度合いが高いのではないかという気もしている。セミなどの長寿命の昆虫も、ひょっとするとそういう部類なのかもしれない。鶴や亀などはどうなのだろうか。 まあ、最近あまり本も読んでいないのでこのあたりがどうなのか詳細は分からないが、あと10年くらいしたらゆっくりと本でも読んでみたいと思う。 #
by antonin
| 2015-04-17 01:48
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